68話 応用組の地獄
訓練場の空気は、朝から重かった。
基礎組の区画とは、結界で明確に分けられた応用組エリア。
一歩踏み入れただけで、空気が変わる。
粘つくような魔力の圧。
ここは「教わる場所」ではなく、「試される場所」だ。
「はーい、集合〜♡」
やけに明るい声が、場違いなほど軽く響いた。
声の主は小柄な女性だった。
ピンク色のおかっぱミディアム、低い身長に反して引き締まった身体。
大きな黄色い瞳が、楽しそうに細められている。
ナノカ・マキシム。
アルトレス軍魔術部隊・副隊長補佐。
「今日から応用組を担当する、ナノカちゃんでーす♪」
ぶりっ子じみた口調。
だが、その足元から滲む闇属性魔力は、明らかに“本物”だった。
(……空気、重っ)
応用組に並ぶのは、すでに一定の制御訓練を終えた者たち。
年齢は十代後半が中心で、実戦経験者も混じっている。
そして、その中に――
一人、年齢の割に小柄な少女がいた。
ナナ。
基礎訓練はすでに一通り終えている。
姿勢、呼吸、魔力循環、最低限の制御。
あとは「応用」に踏み込むだけの段階。
(……ここ、基礎とは全然ちがう)
ナナは、無意識に拳を握った。
「最初に言っとくね〜?」
ナノカが両手を合わせ、にこっと笑う。
「ここ、優しくないから♡」
空気が凍りつく。
「基礎組はマシュウちゃんが“教える場所”だけど〜」
指を一本立てて、軽く跳ねる。
「応用組はね、生き残る場所なの」
誰かが、喉を鳴らした。
「安心して? 死なせはしないよ?」
一拍置いて。
「壊れるかどうかは、別だけど♡」
その瞬間、何人かの顔色が変わった。
「じゃ、軽くいこっか〜」
ナノカは、何の前触れもなく短剣を抜いた。
次の瞬間。
地面を這うように、黒い影が走る。
「――っ!?」
「避けて避けて〜! 止まったらアウトだよ〜♡」
闇属性魔術。
しかも、毒を含んでいる。
触れれば、即座に痺れ、魔力循環が乱される。
「詠唱は!?」
「そんな暇あると思ってる〜?」
ナノカは笑う。
「実戦は、待ってくれないんだよ♡」
影は、意思を持つように追尾する。
数人が距離を取ろうとして――失敗した。
「はい一人脱落〜♡」
影が足首に絡み、青年が膝をつく。
「毒は弱めだから安心して〜。三十分くらい動けないだけ♡」
“だけ”と言える神経が、何より恐ろしい。
ナナは、必死に足を動かしていた。
(……止まったら、だめ)
呼吸を崩さない。
魔力を無理に使わない。
教えられてきた“基礎”を、必死に守る。
だが、影は容赦なく迫る。
「っ……!」
足がもつれ、バランスを崩す。
(……まずい)
だが、その瞬間。
影は、ナナの足元をかすめるだけで通り過ぎた。
完全には避けきれていない。
だが、直撃もしていない。
「……へぇ」
ナノカの声が、少しだけ変わった。
「今の、悪くない♡」
次の瞬間、影が二本に増える。
悲鳴を上げる暇もない。
一人、また一人と倒れていく。
結界外へと転送され、戦線から外される。
訓練場に残る人数は、どんどん減っていった。
やがて。
影が消え、ナノカが手を上げる。
「はい、ストップ〜♡」
応用組の半分以上が地面に転がっていた。
そして――
立っている者は、ほんの数人。
その中に、ナナがいた。
膝は震え、肩で息をしている。
今にも倒れそうだ。
それでも――
立っている。
「……」
ナノカは、ナナをじっと見つめた。
「フラフラだけど〜」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「立ってるね」
その一言が、周囲に静かな衝撃を落とした。
「基礎、ちゃんとやってきた子だ♡」
「無理に魔術に逃げてない」
「嫌いじゃないよ〜?」
ナナは、何も言えなかった。
息を整えるので精一杯だ。
だが――
その評価が、確かに胸に残った。
「おつかれさま〜♡」
ナノカは手を振る。
「明日もやるから、ちゃんと来てね?」
倒れている者たちを見下ろし、付け加える。
「来ない人はね〜」
にっこり。
「応用組、向いてないってことだから♡」
去っていく背中を見送りながら、誰かが呟いた。
「……地獄だ……」
少し離れた場所で、リオルはその光景を見ていた。
(……ナナ)
立っていた。
最後まで。
(……すごい)
遠くで、エリオラが腕を組み、静かに呟く。
「……いい地獄だ」
それは、選ばれた者だけが立てる場所。
そして、確かに――
ナナは、そこに足を踏み入れた。




