第87話:招かれた希望ー1
人類最強の聖騎士ローディオが空間の裂け目へと姿を消してから――正確に十日目の昼下がりのことだった。
魔境の底は、すでに常人が一呼吸しただけで肺が焼け爛れるような、タールのように粘り気を帯びた高濃度の瘴気で満たされつつあった。
ドワーフたちが不眠不休で組み上げた『対魔族用絶対防衛砦』。その三十メートルを超える黒鋼の防壁の屋上で、俺とシン、そしてジークは、魂を削り落とすような疲労の中、交代で死の底を睨み続けていた。
肉体的な疲労ではない。
足元の奥深くで、いつ、どんな魔族が現れるか分からない、ただひたすらに警戒し続けるという極限の精神的苦痛。
「……なぁ、大将。これ、本当に間に合うと思うか?」
防壁の縁に腰掛け、海神のシンが珍しく弱気だった。そして煙草に火をつけながら、紫煙を細く吐き出した。
「各国の精鋭たちが集まる前に上位貴族の魔族が現れるかもしれねぇ、それが今日なのか、明日なのか。……下手すりゃ、今俺が瞬きをした瞬間かもしれねぇ」
「珍しく弱きだな。信じて待つしかない。ローディオが大陸中の戦力を引っ張ってくるまで、俺たちがここを死守する。それだけだ」
俺は腕を組み、冷たい風に吹かれながら西の空を睨み据えた。
平静を装ってはいるが、生物としての生存本能が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らし続けているのがわかる。
――その時だった。
ギギィィィィンッ!!
砦の自動迎撃システム――四方に設置されたドワーフ特製の大質量魔力砲台が、けたたましい魔力反応の警報音と共に、一斉に西の空へと砲身を向けた。
「て、敵襲!? 上空から来ますッ!!」
限界まで張り詰めていたジークが悲鳴のような声を上げ、ヒナワを空へと構える。極度の緊張から、引き金にかかった彼の指が白く変色していた。
分厚い瘴気の雲が、不自然に渦を巻き、見えない巨大な刃で抉られるように真っ二つに裂けた。
そこから、一切の減速なしで急降下してきたのは、四つの巨大な影。
防壁の迎撃システムが、自動で魔力弾を放とうと青白い光を収束させる。
「……待て、ジーク! 撃つな! 親方!迎撃システムを停止しろォッ!!」
俺の心臓が、ドクンと大きく、肋骨が痛むほど跳ねた。
凝視した俺の視界が、分厚い瘴気の奥にいるそれの姿を正確に捉えていた。
空を裂いて降りてきたのは、魔族の尖兵などではない。
軍事国家カエサルの正規軍において、一握りの最高戦力、竜騎士のみが使役を特別に許される、真紅と白銀の飛竜たちだ。
通常なら数週間はかかる距離を、飛竜の限界高度と限界速度で、文字通り命を削って不眠不休で飛んできたのだろう。竜たちの美しい鱗はひび割れ、牙の剥き出しになった口からは、荒々しい炎の混じった血の息が漏れている。
ズシィィィィンッ!!!
凄まじい風圧と、鼻をつく強烈な硫黄の匂いを撒き散らしながら、四頭の飛竜が砦の巨大な中庭に、半ば墜落に近い形で強引に不時着した。
ドワーフの強固な岩盤がクレーター状に陥没し、爆発のような土煙が舞い上がる。
その土煙を真っ二つに切り裂き、竜の背から、見慣れた、そして今一番会いたかった奴らが次々と飛び降りてきた。
「おうおう! 辺境のド田舎に、随分と立派な城が建ってんじゃねぇか! 俺の部屋は一番日当たりのいい最上階を用意してあるんだろうな?」
真紅の竜騎士マントを翻し、いつものように悪びれた笑みを浮かべて歩み出てきたのは、ナンパな火竜。竜騎士レイズ。
軽薄な言葉とは裏腹に、その両手にはすでに愛用の大剣が握り込まれている。そして、血走った眼で俺たちの姿を捉えた彼の目元には、隠しきれない深い安堵が微かに滲んでいた。
「相変わらず品のない着地ね、レイズ。飛竜たちが限界を超えて飛んでくれたのだから、もう少し労りなさい。……それにしても、ここが東の魔境。肌が荒れそうなひどい空気だわ」
冷徹なツッコミと共に、細身の槍を携えて優雅に降り立つ氷竜。竜騎士ミスト。
彼女はすぐさま自身の飛竜の首元に純度の高い冷気を当ててクールダウンさせながら、その氷のように鋭い視線で、砦の構造と周囲の地形、魔力の流れを瞬時に分析し始めている。
「レイズさん! ミストさん! それに……!!」
ジークが、屋上の手すりから身を乗り出して、声を裏返らせた。




