第79話:シンの話ー1
東の山脈を越えた先、三鍛冶の墓所へと続く谷の手前に、その湖はあった。
白く、重い霧が水面を這うように立ち込めている。
視界は数メートル先すらおぼつかない。ただ、櫂が水をかく音と、小舟が波を刻む微かな震えだけが、自分たちが進んでいることを教えてくれる。
「……綺麗な湖だな。不気味なくらいに」
俺が小舟の縁を握りながら呟くと、胸元のペンダントがチリリと冷たく震えた。
『……相棒、あまり水面を覗き込まないで。この湖、嫌な予感がする』
耳元で響くラナの声は、かつてないほど硬い。俺にしか聞こえないその忠告に、俺は無言で頷いた。船尾で舵を握るシンは、珍しく酒を煽らずに霧の先を凝視している。
「ここは『幻影湖』。古い伝承にある場所だ。波が止まり、鏡となった水面を覗き込めば、『失った者』か『一番会いたい者』が映ると言われている」
「……一番、会いたい人」
隣に座るジークが、誘われるように水面を覗き込んだ。
彼の瞳に何が映っているのか、その表情が一瞬だけ、幼い子供のように無防備に緩む。
だが、俺の胸に宿ったのは、温かさなどではない。臓腑を掻き回されるような鋭い痛みだった。
覗き込んではいけない。そう本能が、そしてラナが叫んでいるのに、目が勝手に吸い寄せられる。
――静まり返った水面に、色が混じった。
夕焼けの赤ではない。どろりとした、鉄の匂いのする血の赤だ。
『……新人、舌噛むなよ』
『私たちの荷物、ちゃんと守っててね』
ガロウ。カナ。リード。
俺が弱かったせいで死なせてしまった、最初の仲間たち。彼らが、血塗られた石畳の上で俺を見上げていた。
そして、その中心に。
「……ラナ」
光を失う直前の、あの虚ろな瞳をした少女が、俺に向かって血まみれの手を伸ばしている。
『相棒! ダメ、見ちゃダメ! あたしはここにいる! そっちのあたしは偽物だよ!!』
ラナの叫びが脳内を殴りつける。だが、重力が逆転したかのように身体が小舟から滑り落ち、あの冷たくて暗い、後悔の底へと沈んでいきたくなる。
水面に、俺の指先が触れる。
「――よせ、大将。過去を見るな」
ガシッ、と。
万力のような力で、シンの大きな手が俺の腕を掴み、引き戻した。
「……っ、ハァ……ッ、シン……」
「波ってのはな、前にしか進まねぇんだ。後ろを向いた瞬間に、足元をさらわれるぞ」
シンの声は、いつもよりずっと低く、ひどく乾いていた。
俺は荒い息を吐きながら、自分の腕を掴むシンの手を見た。指先が、微かに震えている。
ふと、俺の視線がシンの足元の水面に落ちた。
シンの影が落とす、その水底。
そこには、俺が見た後悔よりも遥かに凄惨で、理不尽な光景が広がっていた。
見知らぬ美しい街が燃えている。
蹂躙しているのは、魔族のようには見えなかった。……ただの“人”の形をしたシルエット。
だが、そいつらが振るう力は、俺たちの知る魔法でも闘力でもない。この世界の理を根底から踏みにじる、異質で理不尽な暴力だった。
立ち向かう人々が振るう、国宝級であろう強大な武具でさえ、その得体の知れない力の前では紙屑のように砕け散っていく。
そして。血の海の中で無数の仲間たちが倒れゆく中、若き日のシンが、背を向け、ただ一人海へと逃げ出していく姿が映っていた。
「……あ」
バシャッ!
シンが水面を足で乱暴に蹴り、波立たせた。幻影は一瞬でかき消され、ただの暗い水に戻る。
「……シン、お前」
「幻だよ、幻。ここの湖は、タチの悪い冗談をよくつくのさ」
シンはいつもの飄々とした笑みを浮かべたが、その瞳の奥には、俺の抱えるものなど比較にならないほど深く、どす黒い『絶望』が張り付いていた。




