第73話:数奇な愛の唄ー4
シンが俺たちを案内したのは、街の中心にある、冷たく神々しい石造りの建物だった。
慰霊碑のようでもあり、教会のようでもある。
「ここは……?」
「この地で起こった悲劇を、忘れないために建てられた資料館だ」
中に入ると、空気が数度下がった気がした。
温度が下がり、匂いが乾く。
展示されているのは、血に染まった古びた武具。千切れた軍旗。当時使われた魔法の残酷な記録。
『繰り返してはならない』という悲痛な言葉。
――ああ。俺のいた世界の「戦争資料館」と、全く同じ空気感だ。
オリアが、ついに堪えきれず声を荒らげた。
「シン様! 私をからかっているのですか!? ユリウス様はどこにいるんですか!」
シンは振り返らない。からかってもいない。
ただ静かに歩き、館の最奥にある、色褪せた一つの展示プレートを指差した。
「そこ、かな」
展示のタイトルは、こう書かれていた。
『海洋国家オーシャン。砂漠国家バル=ゼファル、戦争と、ウルシア援軍の記録』
百年前。そこに友好的だったウルシア王国がオーシャンに対し援軍を出した記録。
その下に、百名ほどのウルシア兵の『戦死者名簿』と、彼らの思いや心情を綴った手紙がズラリと並んでいる。
――そこに。
インクも掠れた古い名簿の中に、その名前はあった。
【ユリウス・ガスティン】
オリアの膝から力が抜け、冷たい石の床に崩れ落ちる。
ドスン、と床を打つ音が、やけに大きく響いた。
「こんなことって……」
ジークの声が震えた。「でも、この人は……百年も昔に……」
俺は、名簿の横にある小さなガラスケースに目を止めた。
「……ユリウスの手紙がある」
オリアの呼吸が止まった。
ジークの目から、大粒の涙が落ちる。
俺はガラスケースの中の、百年前の兵士が死の直前に遺した手紙を、静かに読み上げた。
『短い人生でしたが、今まで私は真面目に生きてきました。
ウルシア王国に忠誠を誓い。
とうとうウルシア王国のためにこの身を捧げる時が来たのです。
そのことを後悔していません。
ただ、最後に少しだけ、わがままを言わせてください。
見たいもの。ウルシア王都で行われる収穫祭の花火。
食べたいもの。今は亡き母の作る料理。
逢いたい人。……オリア。
声が聞きたい。会って話したい。
あなたとの手紙のやり取りでどれだけ心が救われたか。どんな過酷な訓練も苦ではありませんでした。
心残りと言えば、このようなところでしょう。
オリア。あなたと交わした言葉達を胸に、私は戦います。
怖くはありません。あなたを想い、戦います。
愛しています、オリア』
読み終えた瞬間。
資料館の静寂が、恐ろしいほど深く沈んだ。
金属の冷たさも、石の匂いも、すべてが遠ざかっていく。
オリアは、泣き崩れていた。
取り乱して喚く涙じゃない。
すべてを悟って、すべての絶望を受け入れて、それでも彼からの愛を受け取ったことによる、溢れるような涙だった。
シンが、静かに言った。
「起きていたのは、呪いなんかじゃねぇ。……奇跡だったんだ」
俺は、喉の奥が刃物で切られたように痛むのを、必死で息と共に押し込めた。
「時の勇者の……奇跡、か」
隣で、ジークが声を出して泣いていた。
静かに、でも止まらない。
王子としてではない。ただの一人の人間として、百年前の兵士と、目の前の少女の届かなかった恋のために泣いていた。
どれくらい時間が経ったか分からない。
資料館を出ると、外はすっかり夜になっていた。
◆
夜の帰り道。
ジークが、涙の跡を残したまま、オリアにそっと尋ねた。
「どうだい……? ユリウスに会った感想は」
オリアは震える息を整え、腫れた目で、それでもはっきりと答えた。
「切ないような、やり切れないような、複雑な気持ちです。……ただ、彼は私を愛し、私も愛していた。それだけが、私の真実です」
その言葉が、俺たちの胸の奥にストンと落ちた。
百年越しでも、真実は真実だ。
届かなくても、心は心だ。
俺たちは二、三度ほど言葉を交わし、その地を去った。
◆
馬車が夜道を行く中、シンがぽつりと言った。
「……あそこ、もう『ウィロウ』じゃねぇんだ」
「は?」
俺が聞き返すと、シンは続ける。
「名前が変わって、今はオーシャンの土地、『ゼリゼ』だ。……だから俺は、ウィロウって聞いた時、不思議に思ったんだよ」
ジークが、悔しそうに唇を噛む。
「……だから、王子の僕もわからなかったのか」
俺は、腰のムラマサの柄にそっと触れた。
柄から伝わる熱が、微かに増している気がした。
“時間”が揺れる土地。
百年前の兵士の心が、百年後の少女の愛が、確かに通じ合っていた。
時の勇者の起こした奇跡は、残酷で、ひどく美しかった。
◆
俺たちはレオルラハト領に戻った。
娘の無事な帰還と、憑き物が落ちたような穏やかな笑顔を見て、領主は涙を流して深く頭を下げた。
「この度のご依頼、成功していただき恐悦至極にございます! して、報酬はいかがいたしましょうか? 言い値でお支払いします!」
シンは、面倒くさそうに首を振った。
「報酬? ……いらねーよ。依頼は失敗だ」
「は!?」
ジークが素っ頓狂な声を上げる。
「シ、シ、シンさん!? 言い値ですよ!?」
俺も、思わずジークと同じ顔になっていた。
「シ、シ、シンさん!?!?」
シンは、領主を見下ろして穏やかに言った。
「依頼内容は『オリアちゃんの呪いの解呪』だ。……だが、アレはそもそも呪いなんかじゃなかった」
シンは踵を返し、背中越しに手をひらひらと振った。
「これで報酬もらったら、Sランク冒険者の名折れだ」
領主の目が大きく見開かれ、やがて、深く、深く頭が下げられた。
金じゃない。
その顔はもう、亡者のようなやつれた顔ではなく、一人娘を愛する『父親』の顔に戻っていた。
俺とジークは顔を見合わせ、呆れたように笑ってシンの背中を追った。
「幸い、金はあるからな」
俺の小さな負け惜しみは、夜風に溶けて消えた。
時の向こうから届いた手紙は、確かに少女の心を救い、国を支えた兵士の心を支え、俺たちに少しだけの優しさを残して、百年の時の中へ帰っていった。




