第72話:数奇な愛の唄ー3
オリアだった。
息が切れ、顔は死人のように青ざめ、心が今にも崩れ落ちそうに震えていた。
「ひ、ひぃ!? オリアさん!?」
ジークが慌てて立ち上がる。
「あ、あの人が……ユリウス様が……明日、戦地に旅立ってしまうと……!!」
オリアは、手首が白くなるほど手紙を握りしめていた。
シンが一歩前に出る。
「落ち着いて。詳しく聞いていいかい?」
「はい……文通していた相手は、ユリウス・ガスティン様という兵士様です。その方の、戦地への派遣が決まって……」
「戦地? 場所は分かるかい?」
「ウィロウ……。戦死者が最も多い、最前線の激戦区だと……!」
俺は思わず眉をひそめた。
「シン。この大陸、今どこかで戦争なんてやってたか?」
シンは――黙った。
黙ったまま、底知れぬほど暗い目で、遠くを見ていた。
その沈黙が、背筋に冷たい嫌な予感を這わせる。
「……シンさん?」
ジークが不安げに呼ぶ。
「止めなくては! 今夜十九時に彼からの返事が来るはずだから、それで絶対に引き止めます!」
オリアが必死に叫ぶ。
シンは、静かに、重く頷いた。
「……返事を待ってからだな」
◆
夜。
十九時。
いつもなら文字が消え、彼からの返事が浮かび上がる時刻。
――だが、返事は来なかった。
石像の足元に残っていたのは、オリアが書いた悲痛な文字が羅列した手紙だけ。
必死に引き止めるための言葉が、涙で震え、ひどく滲んでいる。
「こんなことって……」
オリアの足から力が抜け、冷たい石畳に崩れ落ちた。
「毎日……毎日返事があったのに……。嘘よ……いや……」
嗚咽が夜の空気に溶けていく。
心が、強制的に引き裂かれた瞬間の、痛々しい音。
シンが近づき、オリアの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「……オリアちゃん。ユリウスくんに会いたいかい?」
オリアが、涙で濡れた顔を上げる。
「会えるのですか……!?」
シンの顔は、一切の冗談を削ぎ落とした、残酷なほど真剣な顔だった。
「どんな結果であろうと、受け入れる覚悟はあるかい?」
オリアは、血の滲むような力で唇を噛み、深く頷いた。
「はい。あの方と会えるのであれば」
シンは立ち上がる。
「じゃあ行こう。最前線、ウィロウへ」
翌朝。
出立の準備をする俺たちの前に、戦地へ赴くための旅装束を整えたオリアが立っていた。
「準備は整いました」
その姿は痛々しいのに、決して揺らいではいなかった。
愛が、人をここまで強くする。
俺は馬車の中でシンに聞いた。
「なぁ、ウィロウってのはどこにあるんだ?」
「僕も、聞いたことがありません」
ジークも首を傾げる。
シンは地図の一点を指差した。
「ウルシアとオーシャンの近く。ここから馬車で一日だ」
そして、小さく付け足した。
「……だから、変なんだ」
俺は息を呑んだ。
「ちっか! そんなすぐ近くで戦争なんて――」
だが、オリアの凛とした背中が、俺の言葉を止めた。
軽口で踏みにじっていい重さじゃない。
◆
到着したウィロウという場所は――平和そのものだった。
市場には活気があり、石畳の広場では子供たちが笑い声を上げて走り回っている。
最前線どころか、血の匂いすらない。
オリアが呆然と立ち尽くした。
「シン様……ここがウィロウですか? とても最前線の戦地には思えませんが……」
シンは、感情のない声で言った。
「ここがウィロウ。最前線『だった』場所だ」




