第64話:神王獣ヤマタノオロチー2
音ではない。空間そのものが、巨大な殺意によって歪み、ひしゃげたのだ。
木々の奥から、山が動くような錯覚と共に、巨大な影がせり出してくる。
八つ首の大蛇。
それぞれの眼窩に、狂ったような別の光を宿している。
炎の赤、氷の青、雷の紫、毒の黒。
時間の歪みの白、未来視の金、重力の深い紺、精神の不気味な緑。
神王獣ヤマタノオロチ。
俺の脳が、生物としての理解を完全に拒否した。あれは命ではない。『災害のジオラマ』だ。
「声を出すな!」
ジークが悲鳴を上げるより早く、ライーオが低く告げた。
「……来るぞ」
ヤマタノオロチの『未来視の首(金)』が、俺をギロリと睨み下ろした。
――そして。
神王獣は、困惑したように瞬きを繰り返した。
未来視。それは自身の行動に対し、相手がどう動くかを確定された映像として視る能力。
オロチは見たはずだ。自分が俺を捕食し、俺が死ぬ未来を。
だが、その未来の直後、俺の時間が『五秒巻き戻る』未来が重複して見えたのだ。
確定された未来と、改変される過去。
二つの矛盾した事象が衝突し、オロチの脳内で理解不能なバグを引き起こした。
(見たな。俺のムラマサを)
俺は既に、魔剣を半ば引き抜いていた。刃が、時間の感触を纏ってチリチリと鳴っている。
チートには、チートをぶつける。
「ギリーエ、ジーク! 中へ入れ!!」
「え、え、え!?」
ジークが半泣きで動く。
ギリーエは一切の躊躇なく、既にハッチへ足をかけていた。戦えない王子が、戦場において誰よりも冷酷な『指揮官』の顔になっている。
「ジーク、先に! 私は後です!」
二人を鉄の箱に押し込んだ瞬間、オロチのバグが解け、怒り狂った首が同時に動いた。
赤い灼熱と青い極寒が、混じり合うことなく二本の極太の槍となって迫る。
「防げ!!」
俺はクリスタルワイバーンの手甲を展開した。
前方に、分厚い透明な結晶の絶対防壁が顕現する。
ドゴォォォォンッ!!!!
炎と氷が激突し、熱と冷気が相殺して致死量の蒸気爆発を引き起こす。
防壁が嫌な音を立てて軋むが、割れない。
『相棒、いまの判断、最高!』
(うるせぇ、褒めんな集中切れる!)
間髪入れず、雷が落ち、同時に周囲の重力がねじ曲がった。
身体が鉛のように重くなり、膝が泥に沈む。真上からは紫電の槍。
常人なら、この時点で生きることを諦めるコンボだ。
だが、ライーオが動いた。
巨大な弓がしなる。放たれた白木の矢が、空から落ちる雷を物理的に“引き裂いた”。
「マジかよ」
雷を矢で落とす。ありえない。だが、聖樹の力がそれを現実に引きずり下ろす。
直後、精神干渉の首(緑)が目を光らせた。
俺の視界に、“幻”が強制的にねじ込まれる。
血を流すルーナ。
事切れたレーオ。
『あなたのせいよ』と囁く、呪いの声。
(……ッ、記憶を読み取ってやがるのか!)
心が、一瞬だけ致命的な隙を見せかけた。
だが、ダンッ!と。
ライーオが腰の短剣を抜き、地面に深く突き立てた。
聖樹の加護が波紋のように広がり、空気を浄化する。幻が、ガラスのように砕け散った。
「……森の子を舐めるな」
ライーオの声は、地の底から響くように低かった。
怒っている。娘と息子を愚弄された、父親の純粋な殺意だ。
俺は、重力の縛りを強引に振り解いて前へ出た。
「こっちだ蛇野郎! ラナ、全部乗せだ!!」
『はいよぉっ!』
白銀と金の装甲が、俺の骨格を上書きする。
背中には黒龍の翼。両腕の結晶防壁。指輪は雷を纏う長刀のクナイへ。
そして右手には、魔剣ムラマサ。
爆発的な推力で、俺は宙を蹴った。
視界が線になる。狙うは、あの厄介な『未来視』の首。
ズバァンッ!!
一閃。首が宙を舞う。
だが、落ちたそばから断面の肉が蠢き、骨が組み上がり、新たな皮膚が瞬時に張り直された。
「……冗談だろ、再生速すぎだ」
ヤマタノオロチが嘲笑うように、毒と腐敗の黒い霧を吐き出した。
地面が溶け、木々が即座に枯れ果てる。
「くそっ、セイレーンマスクがあれば――」
だが、それよりも早く『時間遅延』の波が俺を捉えた。
空気が粘着質に変わり、動きがコマ送りのように遅くなる。心臓の鼓動すら重い。
未来視が、俺の“次”を読む。
重力が、俺の“回避”を潰す。
炎と氷が、俺の死を確定させる。
完全に、詰み。
――その瞬間。




