名前のない敵
拠点に戻ると、ヴァディムは戸棚から缶詰を一つ取り出した。
「食え。豆だけだが」
差し出された缶の縁は、錆びて変色していた。
サキはそれを受け取り、しばらく見つめてから、テーブルに置いた。
「いらない」
「腹、減ってないのか」
「たぶん、もう。減らない」
ヴァディムの眉が、わずかに動いた。説明を求める沈黙だった。
「最近、食べることを忘れても平気だと気づいた」
言葉にしてみると、自分でも奇妙に響いた。
「身体が、勝手に何かから栄養を作ってるみたいに」
放射線かもしれない、とは言わなかった。確信もなかったし、確信したところで、誰の役にも立たない。
ヴァディムは、自分の分の缶詰を黙って開けた。咀嚼の音だけが、しばらく部屋を満たす。
「あの人たちは?」
サキは、窓の外、中庭の方角へ目をやった。
「食事は」
「俺たちが運ぶ」
ヴァディムが言う。
「自分じゃ、探そうともしない。皿を口元に持っていけば食うが、置いておくだけじゃ、餓える」
意志がないというのは、そういうことなのだと、改めて思い知らされる。生きるための一番単純な行動さえ、誰かに手渡してもらわなければ始まらない。
考古学が教えてくれた死者たちは、少なくとも、生きていた頃には自分の手でパンを千切っていた。
「お前は、何から逃げてる」
唐突な問いだった。サキは、すぐには答えなかった。
「文明復興庁」
ヴァディムの咀嚼が止まった。
「クラスIVの収容対象をアークから連れ出した。それだけで、永久指名手配の対象になる」
「文明復興庁、ね」
ヴァディムが、缶を置いた。
「聞いたことはあるが、見たことは誰にもない」
その通りだった。
サキ自身、F.C.E.U.に所属していた頃でさえ、文明復興庁という機関を、実体として見たことは一度もなかった。
発令だけが、上から降ってくる。誰が決め、誰が署名し、誰の顔がその下にあるのか——基底言語に翻訳された命令文には、そのどれも記されていない。
組織というより、規則そのものが意志を持って動いているような感触だった。
第二次バベル協定という名の沈黙が、人の形をした何かのふりをして、命令を下し続けている。
「実体がないものに追われる気分は?」
「悪くない」
サキは、初めて笑った。
「少なくとも、顔のない敵に罪悪感は持たなくていい」
ヴァディムが低く笑う番だった。
沈黙がしばらく続いた。悪くない沈黙だった。
「これから、どうする」
ヴァディムが訊いた。
中庭の方から、また低いハミングが聞こえはじめていた。さっきまでとは違う。
今度は、新しく加わった声が混じっている。
サキは、窓の外を見た。
「あれを、放っておけない」
自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。
「東で何が起きてるにしても、ここにいる人たちみたいなのが、まだ世界中にいるはずでしょう」
「保護者にでもなるつもりか」
「わからない。でも——」
言葉を探す。
「拾うだけの人生は、もう終わりにする」
ヴァディムは、何も言わなかった。
ただ、テーブルの上の手つかずの缶詰を、サキの方へもう一度押し戻した。
「東へ行くなら、海を渡る手段がいる」
それだけ言って、彼は立ち上がった。




