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第七人類絶滅報告書  作者: ななめハンバーグカルパス
第四部 デルタは目を瞑る
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名前のない敵

 拠点に戻ると、ヴァディムは戸棚から缶詰を一つ取り出した。


「食え。豆だけだが」


 差し出された缶の縁は、錆びて変色していた。

 サキはそれを受け取り、しばらく見つめてから、テーブルに置いた。


「いらない」


「腹、減ってないのか」


「たぶん、もう。減らない」


 ヴァディムの眉が、わずかに動いた。説明を求める沈黙だった。


「最近、食べることを忘れても平気だと気づいた」


 言葉にしてみると、自分でも奇妙に響いた。


「身体が、勝手に何かから栄養を作ってるみたいに」


 放射線かもしれない、とは言わなかった。確信もなかったし、確信したところで、誰の役にも立たない。

 ヴァディムは、自分の分の缶詰を黙って開けた。咀嚼の音だけが、しばらく部屋を満たす。


「あの人たちは?」


 サキは、窓の外、中庭の方角へ目をやった。


「食事は」


「俺たちが運ぶ」


 ヴァディムが言う。


「自分じゃ、探そうともしない。皿を口元に持っていけば食うが、置いておくだけじゃ、餓える」


 意志がないというのは、そういうことなのだと、改めて思い知らされる。生きるための一番単純な行動さえ、誰かに手渡してもらわなければ始まらない。


 考古学が教えてくれた死者たちは、少なくとも、生きていた頃には自分の手でパンを千切っていた。


「お前は、何から逃げてる」


 唐突な問いだった。サキは、すぐには答えなかった。


「文明復興庁」


 ヴァディムの咀嚼が止まった。


「クラスIVの収容対象をアークから連れ出した。それだけで、永久指名手配の対象になる」


「文明復興庁、ね」


 ヴァディムが、缶を置いた。


「聞いたことはあるが、見たことは誰にもない」


 その通りだった。

 サキ自身、F.C.E.U.に所属していた頃でさえ、文明復興庁という機関を、実体として見たことは一度もなかった。


 発令だけが、上から降ってくる。誰が決め、誰が署名し、誰の顔がその下にあるのか——基底言語に翻訳された命令文には、そのどれも記されていない。

 組織というより、規則そのものが意志を持って動いているような感触だった。


 第二次バベル協定という名の沈黙が、人の形をした何かのふりをして、命令を下し続けている。


「実体がないものに追われる気分は?」


「悪くない」


 サキは、初めて笑った。


「少なくとも、顔のない敵に罪悪感は持たなくていい」


 ヴァディムが低く笑う番だった。

 沈黙がしばらく続いた。悪くない沈黙だった。


「これから、どうする」


 ヴァディムが訊いた。

 中庭の方から、また低いハミングが聞こえはじめていた。さっきまでとは違う。

 今度は、新しく加わった声が混じっている。


 サキは、窓の外を見た。


「あれを、放っておけない」


 自分の声が、思っていたよりはっきりしていた。


「東で何が起きてるにしても、ここにいる人たちみたいなのが、まだ世界中にいるはずでしょう」


「保護者にでもなるつもりか」


「わからない。でも——」


 言葉を探す。


「拾うだけの人生は、もう終わりにする」


 ヴァディムは、何も言わなかった。

 ただ、テーブルの上の手つかずの缶詰を、サキの方へもう一度押し戻した。


「東へ行くなら、海を渡る手段がいる」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。

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