電波の沈黙
テーブルに広げられた地図は、半分が滲んで読めなくなっていた。
それでも、ヴァディムの指は迷わずに線をなぞる。
「ここから北は、廃線沿いに進むのが一番早い。野盗は出るが、グリッチは出ない」
彼の指が、東へ滑っていく。
「問題はここから先だ。情報がない」
地図の余白に、何も描かれていない領域が不自然なほど広がっていた。
誰も戻ってこなかった場所、ということなのだろう。
「ウラジオストクまで、どのくらい」
「歩きなら二月。車があれば、半分以下」
「車は」
「ない。あれば、俺がとっくに乗ってる」
サキは、地図から目を上げた。大陸を横断する、という言葉の重さが、今さら肩にのしかかってくる。チェルノブイリを出てから、まだ三日も経っていない。
ふと、ある考えが浮かんだ。
「F.C.E.U.時代の伝手が、一つだけある」
端末を取り出す。電源を入れるだけで、指先が冷たくなった。古い暗号化周波数。最後に使ったのは、もう何年も前だ。
短い符丁を打ち込み、送信する。
返事は、ほとんど一瞬で来た。
[認証コード不一致。発信元を記録します]
機械的な文字列の連なりに、サキの背筋が凍った。一瞬で来た、ということ自体がおかしい。
眠っているはずの回線に、誰かが、ずっと聞き耳を立てていたとしか思えない。
電源を切る。心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「だめか」
ヴァディムが、訊くというより、確認するように言った。
「だめ。むしろ、教えない方がよかった」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「だったら」
ヴァディムが、椅子の背にもたれた。
「俺の伝手を使え」
「あるの」
「メビウスの連中だ。法も国境も無視して、モノと人を運ぶ。俺たちにも、たまに薬と引き換えに物資を届けてくれる」
彼は、地図の端、海岸線近くの一点を指で叩いた。
「この辺りに、奴らの船がよく着く。乗せてもらえるかどうかは、運次第だが」
「対価は」
「労働か、情報か、武器」
ヴァディムが、サキを一瞥する。
「お前、戦えるな」
「少しは」
「それで十分だ」
中庭から、低いハミングが、また風に乗って届いた。三、六、九。区切りのリズムは、最初に聞いたときより、わずかに速くなっている気がした。気のせいかもしれない。確かめる術はない。
「大陸を渡るだけで、何ヶ月もかかる」
サキは、地図の余白——情報のない領域に、もう一度目を落とした。
「その間に、あれが何なのか、誰かに先を越されるかもしれない」
「だったら、急ぐしかないだろう」
ヴァディムが、地図を畳んだ。
畳まれた紙の隙間から、まだ東を指していた指の跡が、薄く残っていた。




