焚き火の沈黙
靴底は、もう紙のように薄くなっていた。
最初の街を出てから、何度目の野営かは数えるのをやめている。
森が途切れ、見渡す限りの枯れ草原に変わって、もうずいぶん経つ。
ヴァディムは、相変わらず無言で先を歩く。
けれど、夜になると、その口は少しだけ重さを取り戻す。
焚き火の前で、ヴァディムが、初めて自分から口を開いた。
「俺はあの日、列車の中にいた」
サキは、火に手をかざしたまま、続きを待った。
「隣に座ってた女が、急に本を読むのをやめた。文字が読めなくなった、って言ってた。次は、車掌のアナウンスが、ただの音にしか聞こえなくなった。最後は——」
ヴァディムが、火を見つめたまま、言葉を切った。
「自分の名前を、思い出せなくなった奴を見た。何度も、何度も、口の中で同じ音を転がしてた。けど、出てこなかった」
炎が爆ぜる音だけが、しばらく間を埋めた。
「お前は、どこにいた」
「タクラマカンの地下」
言ってから、サキは少し驚いた。
誰にも話したことのない場所の名前が、自分の口から思ったより簡単に出ていった。
「アークっていう施設がある。第七人類の記録を集めた場所。大沈黙の後、ずっとそこにいた」
ヴァディムは、何も言わずに続きを促す沈黙を作った。その黙り方が上手かった。
「そこで、エレナに会った」
名前を口にした瞬間、自分の声がわずかに柔らかくなったのが自分でもわかった。
「クラスIVだった。一番危険な分類。でも、彼女がしてたのは、ただ、機械と話すことと、データを整理することだけ」
「機械と話す、ってどういうことだ」
「文字通り。声に出さず、端末越しに。ほとんど、それでしか話さない人だった」
火が、ぱちりと音を立てた。
「お前をここまで歩かせてる女か」
サキは、答えなかった。答える必要がないほど、図星だった。
ヴァディムは、しばらく火を見つめてから、低く言った。
「会ったこともない女に言うのもなんだが」
「なに」
「末恐ろしい女だな」
サキは、思わず顔を上げた。
「クラスIVに分類されて、機械としか話さなくて、それでもお前に、ここまでの距離を歩かせる理由を作れる女だ。普通の女に、それができるか」
反論しようとして、できなかった。
火が、また小さく爆ぜた。風が、草原を渡っていく音だけが、しばらく二人の間を埋めた。
「明日には川に出る」
ヴァディムが、立ち上がりながら言った。
「そこから先は、地図にない」




