歌う者たち
毛布の上から伝わる体温は、人のそれと変わらなかった。それなのに、腕の中の重みは、まるで物を運んでいるときと同じだった。サキはその違和感を、誰にも言えずに飲み込んだ。
ヴァディムが先導する。瓦礫の道を慣れた足取りで進みながら、彼は一度も振り返らなかった。
「もう少しだ」
低い声だけが、答えだった。
連れて行かれた先は、かつて学校だったらしい建物だった。崩れた壁の隙間から、夜風が吹き込んでいる。けれど中庭には、奇妙な静けさがあった。——いや、静けさではない。
低く、規則的な音が満ちていた。
ハミングだ。十人ほどのH-住民が、地面に座り込んだまま、同じ高さの音を、途切れることなく鳴らしている。誰かが指揮しているわけでもないのに、声と声の間に、寸分の狂いもなかった。
腕の中の女を、その輪の中へそっと下ろす。誰も振り返らなかった。歓迎の言葉も、驚きの表情もない。ただ、輪が一人分だけ広がり、彼女の声が、何の継ぎ目もなくその合唱に溶け込んだ。
戻ってきた、という感覚は、たぶんこの場所のどこにもない。
「前は、もっとばらばらだった」
ヴァディムが、壁に背を預けて言った。
「唸るやつ、笑うやつ、ただ黙ってるやつ。それぞれ好き勝手だった」
「今は?」
「揃ってる。ここ数週間で、急に」
サキは、輪の中心へ視線を戻した。十数の口が、一つの旋律をなぞっている。三つの音、六つの音、九つの音。区切りごとに、わずかに高さが変わる。
——歌っているのかもしれない、と前に思ったことを思い出す。あれは、当たらずとも遠からずだったのかもしれない。
「気味が悪いとは思わないの」
「思うさ。だから見張ってる」
ヴァディムは、自分の拳を見つめた。
「だが、止め方がわからない。殴って黙らせるわけにもいかない」
その時、輪の中の声が、ふっと止んだ。
すべての声が、同時に。
風の音だけが残った中庭で、十数の虚ろな瞳が、ゆっくりと、同じ方向——東の闇へ向いた。
ヴァディムの拳が、強く握り込まれる。
「……こんなことは、初めてだ」
サキも、東を見た。瓦礫の向こうに、何があるというのだろう。
何も見えない。けれど、見えないはずのものに向かって、十数の瞳が、揃って焦点を結んでいた。




