ガラスの遠吠え
松の樹皮に浮かんだ模様が、また動いた気がした。
足を止め、サキは目を凝らす。錯覚ではない。この森は、見るたびに違う文字を見せてくる。
今夜は、四角い規則正しい黒い升目。どこかの記録媒体に焼きつけられたコードのようだった。
情報のデッドゾーンと呼ばれる場所で、いったい何の情報が、誰に向けて明滅しているのだろう。
歩きながら、靴の中で小石を確かめるように、自分の決意をもう一度数えた。
エレナの声は、まだ耳の奥に貼りついている。けれど振り返る理由にはならなかった。
苔が一瞬、内側から白く灯った。歩を進めるたび、その光が後を追ってくる気がする。——歌っているのかもしれない、とサキは思う。意味のない音の連なりだとしても、誰かに向かって。
足元に、錆びた鉄片が落ちていた。拾い上げると、刻印の一部が読み取れる。Сектор——「区画」。かつて誰かが、この森のどこかに線を引いた跡。考古学者の指が、勝手に動いて表面の錆を撫でる。誰の手が、最後にこれに触れたのだろう。
拾ったところで何になる。
昨夜と同じ問いが、また喉の奥で疼いた。
そのとき、背後でガラスの砕ける音がした。
振り返るより早く、何かが地面を蹴る音。廃材とガラス片が、見えない力に引き寄せられて、獣の輪郭をなしていく。
グリッチ・ハウンドだ、と頭のどこかが冷静に分類する。
逃げる、という選択肢を検討する間もなく、ガラスの破片の連なりが、肩を裂いた。
熱さより先に、冷たさが来た。
倒れこむ寸前、皮膚の下で何かが疼く。糸のような、けれど確かな光が、傷口の縁からほどけるように広がっていく。金色だった。痛みは長く続かない。
裂かれた肌が、何事もなかったかのように、内側から編み直されていく。
獣がもう一度跳びかかる構えを見せた瞬間、サキは後退するのをやめた。
前に出た。
放射線量の高い窪地へ、迷わず踏み込む。ガイガーカウンターなら振り切れているはずの数値。けれど自分の肌には、ただの生ぬるい水のようにしか感じられない。
獣の輪郭が、ふいに揺らいだ。ガラス片の一枚一枚が、パターンを保てなくなったように震え、形を失っていく。崩れ落ちる音は、最初に聞いた砕ける音と、よく似ていた。
肩に触れる。傷はなかった。
代わりに、金色の糸の模様が、皮膚の上にうっすらと残っていた。
これが、自分の身体なのか。
しばらく見つめてから、サキは歩き出した。木々の隙間から、夜空を区切る四角い影が見えはじめている。ビルだ。等間隔に並んだ、人の手で作られた直線。
森を抜けた先に、街があった。
そして、その街の窓の一つに——明かりが灯っていた。
新作の小説を投稿しました。
「ニコイチ」
https://ncode.syosetu.com/n0593mk/




