旅立ち
低く規則的な振動音で、サキは目を覚ました。
石棺の天井は、今日も鉛色に沈んでいる。配管の唸りに混じって、何か——金属が共鳴していた。
毛布を払い、簡易ベッドから足を下ろす。
コンクリートの冷たさは、もう微温湯のようにしか感じない。
保温ポットには、昨夜のコーヒーが半分残っていた。サキはそれを一口含んで、研究区画へ向かった。
奥の柱が、薄明かりの中にそびえていた。
ソ連時代の配電盤から剥がしたケーブルが、規則正しく螺旋を描いて巻きつけられている。三重に。六重に。九重に。
その根元に、エレナがしゃがみ込んでいた。
「また夜通し?」
「6時39分。夜通しではない」
振り向かずに、答えが返る。声だった。端末ではない。
サキはその声にもう驚かなくなっている自分に気づいて、ほんの少し、唇を噛んだ。
隣にしゃがみ、塔を見上げる。
「これ、また大きくなりました?」
「テスラの世界無線システムの逆応用」
エレナの指が、コイルの一巻きを微調整する。
「送信ではなく、受信のための再構築」
「……何を受信するんですか」
「まだわからない」
短い答え。
「完成には、まだ遠い」
サキは膝を抱えた。
「完成したら、どうするんですか」
「アーリンに見せたい」
その一言に、サキの口角が勝手に下がった。
「……アーリンに、ね」
「あなたの声には、棘がある」
「気のせいです」
「気のせいではない」
エレナはようやく、サキのほうを見た。
「あなたは——嫉妬している」
「してませんけど」
「している」
サキは唇を尖らせた。
「だって、いつもアーリンですよ。完成したらアーリン。新しい理論もアーリン。私は何ですか、ただの——観察記録ですか」
エレナは答えなかった。
代わりにコイルから手を離し、サキの前髪を不器用な動きで撫でた。
「観察記録には触れない」
「……それ、慰めてるつもりですか」
「慰めではない。事実」
サキは、ふと、エレナの口元が——わずかに、本当にわずかに緩んでいることに気づいた。
「エレナ、今、笑いました?」
「笑っていない」
「笑いましたよね、絶対」
「これはデータ整理に対する、満足の表情」
「それ絶対、笑ってるじゃないですか!」
エレナは何も言わず、視線をコイルへ戻した。だが、髪に触れた手はまだ少しだけ長く、そこに留まっていた。
◆
何日が過ぎたのか、サキは正確に数えていない。三十、いや、もっとだろう。鉛色の天井の下では、太陽も月も意味を持たない。
朝、ということにしている時間にエレナが水を一杯、枕元に置く。それが一日の始まりだった。
「ありがとう」
返事はない。かわりに乾いた指先が、サキの額に一度だけ触れる。
その指の硬さに、サキはいつも頬を寄せたくなる。武器を握るための硬さではなく、百年分の孤独を、そっと畳んでいるような硬さだった。
夜、エレナが待機に入ると——彼女は眠らない、ただ静止するだけだ——サキは古い録音機を取り出した。
個人ログ。誰に届くわけでもない記録。
「……今日も、何もしなかった日。コイルの様子を見て、コーヒーを飲んで、エレナの手が止まるのを待って」
言葉が続かなかった。
「文明復興庁にいた頃は、毎日、誰かの代わりに何かを背負っていた。カナリアが鳴れば走った。人を、生きた人も、死んだ人も守った。今は——」
録音機の赤いランプが、無言で点滅していた。
サキはスイッチを切った。
◆
きっかけは、些細なことだった。
「ドゥーガの方角を、見に行こうと思います」
エレナの指が止まった。
「行かなくていい」
「手伝います。あの森の感覚、覚えてますし」
「危険すぎる」
「私、ホモ・ロゴス化、進んでるんですよね? 放射線、もう微温湯みたいなものだって」
「進行速度が不明。リスクは私が引き受ける」
「私には、引き受けさせない、ってことですか」
エレナは答えなかった。
その沈黙は、いつもの満たされた沈黙ではなかった。ただ、何もない沈黙だった。
サキは立ち上がる。
「私、ここで何してるんですか、エレナ。コイルの数式もわからない。アーリンみたいに対話もできない。リアムみたいにデータも読めない。私にできることが、ひとつもないじゃないですか」
「あなたは——」
エレナの口がそこで止まった。長い沈黙。
それから、ようやく文字にも声にもならない呼吸の後、言葉が落ちた。
「あなたは、生きているだけでいい」
サキは、その一言をしばらく理解できなかった。
理解した瞬間、何かが静かに割れた。
「……それ、観察記録と同じですよね」
「違う」
「同じです。役割なんて要らない。ただそこにいて、データとして存在していればいい。それがエレナの言ってることです」
「サキ」
「私には、文明復興庁にいたときの方が、まだ、誰かの役に立ってた気がします」
エレナは動かなかった。動けなかったのか、動かないと決めたのか、サキにはわからなかった。
◆
荷物は、多くなかった。F.C.E.U.のIDタグと、欠けたティーカップの破片を一つ。
エレナは止めなかった。コイルの前に立ったまま、振り向かなかった。
その背中に向けて、サキは扉の前で一度だけ足を止めた。
「行ってきます、じゃないですね。……行きます」
返事はなかった。
鉛色の通路の向こうへ、サキは歩き出した。
扉が閉まる、その最後の隙間から、サキは見た。
エレナの手がコイルから離れ、何もない場所で——一度、握られている。
水を渡すための手だった。
花を持ってくるための手だった。
しかし今は、何も持っていなかった。




