宙を舞う
もう、迷う余地なんてなかった。
チューブが三方から迫っている。天井の点滴スタンドを溶かし込むように太くなったそれは、青白く発光しながら、ナージャの足首を掬い取ろうと這い寄ってくる。
ナージャの息はもう浅い。銃創のせいか、それとも光そのものに当てられたせいか、判別する余裕はサキにはなかった。
考えるより先に、腕が動いていた。
「――っ」
ナージャの声が短く途切れる。抱え上げられた自分の体重の軽さに驚いたのか、それとも次に何をされるか悟ったからか。答えを聞く前に、サキは窓ガラスへ肩から突っ込んでいた。
ガラスの破片が光を弾きながら散る。
その一粒一粒が、まるで凍った時間のかけらのように、二人を追い越して落ちていく。
落下が始まる。
風がナージャの短い悲鳴を奪い取っていった。
「馬鹿、正気か――」という続きの言葉は、たぶんサキの耳には届いていたが、今は応える言葉を持ち合わせていなかった。腕の中のこの体温だけを、どこにも渡さないと決めていた。
病棟の壁を突き破って、光るチューブが追ってくる。一本ではない。二本、三本。まるで巨大なくらげの触手が、コンクリートの中から生まれ出てくるようだった。チューブの内側を流れる光は、意味を持っているとサキには分かる。
理解できないのに、分かってしまう。それがこの化け物の恐ろしさだった。
金糸が、皮膚の下で疼いた。
血管の代わりにそこを流れているものが、サキの意思よりも先に体を動かし始める。
落下の速度に逆らって、右腕だけで宙の壁を殴りつけるようにして軌道を変える。人間の骨格では耐えられない衝撃のはずだった。けれど今のサキの体は、悲鳴を上げる代わりに、傷口から淡い金の光を滲ませるだけだった。
「――ッ、これ以上は」
ナージャの声に混じる本物の恐怖に、サキは気づかないふりをした。気づいてしまえば、止まってしまう気がした。
一本のチューブがしなり、鞭のようにサキの頭上から振り下ろされる。かわす。もう一本が横から。かわす。
三本目が、ナージャの背中を狙って伸びてきた瞬間、サキの視界が初めて白く点滅した。
考えるより先に、体が判断していた。ナージャを守るという一点だけが、残された人間らしさの最後の在り処だった。
腕を組み替え、盾のようにナージャの体を自分の胸へ抱き込む。チューブの先端がサキの肩を貫いた。痛みはあるはずだった。あるはずなのに、遠くの部屋で誰かが叫んでいるみたいにしか聞こえない。
肩から入った光が、サキの内側を這い上がってくる。
サキは奥歯を噛んで、それを押し返した。金糸が傷口の周りで束になり、侵入者を締め上げるようにして押し出す。
「サキ……!」
ナージャが名前を呼んだ。怒っているような、懇願しているような声だった。
まだ、堕ちていく。地上の光がゆっくりと近づいてくる。距離を測る余裕なんてなかった。
四本目のチューブが、今度こそサキの胴を狙って正面から突き出された。
避ければナージャに当たる。庇えば自分が刺し貫かれる。
選択肢なんて、最初から一つしかなかった。
「掴まって」
短く、それだけ言った。
答えを待たずに、腕の中のナージャの体を、まっすぐ上へ投げ上げた。
人間の腕力でできることではなかった。金の糸が骨と筋肉の境目で悲鳴のような音を立てて軋み、その代償として、左腕が肩の付け根から千切れて宙に舞った。
断面から零れ落ちるのは血ではなく、解けた光の糸の束だった。まるで縫い目を失った人形の腕のようだと、サキはどこか他人事のように思った。
痛みより先に、腕の付け根の熱さだけが分かった。
でも、それでよかった。
ナージャの体がチューブの射程の外へ、落ちていく自分を置き去りにし、宙高く放り出されたのが見えたから。
サキは残った右腕で、目の前を通り過ぎていく光るチューブを掴んだ。
焼けるように熱い。皮膚が張り付き、剥がれる感触がした。それでも離さなかった。
チューブの胴体を伝って、重力に逆らうように駆け上がる。
四肢の一本を失った体で、なお上へ。
「ホモ・ロゴス」という言葉が、頭の隅を掠める。人間じゃない。分かっている。
分かった上で、それでも今、この瞬間だけは、人間のふりをする必要すらなかった。
ナージャを取り戻すことだけが、この体の使い道だった。
宙で、ナージャと目が合った。
上昇の頂点で、時間が止まったように見えた一瞬。ナージャの手には、短銃が握られていた。狙いは、チューブの根本――サキが解析するより早く、ナージャ自身が見抜いていた中心だった。
「そっちの根元、切れるか!?」
ナージャが叫ぶ。声はもう恐怖より、実務の響きに戻っていた。
サキは答える代わりに、残った腕をチューブの根本へ突き立てた。ナージャがほぼ同時に、二発の弾丸を発砲。
二つの衝撃が重なった瞬間、チューブ全体が痙攣するように光を失い、ただの融けた物質の残骸へと崩れ落ちていった。
静寂が戻る。
だが体は、まだ宙にある。落下が終わっていない。
「クソッ、このままじゃ――」
ナージャの声が届く前に、サキはすでに計算を終えていた。地面までの高さ、二人分の体重、残された腕一本。答えは変わらなかった。
体をひねり、下になる。ナージャの体を上に、自分を下に。
「……お前、なんで」
問いの形すら成していない声を、サキは風の中で聞いた気がした。
応えなかった。応える言葉は、もう痛みでどこかに溶けていた。
背中から地面に叩きつけられる。
骨が軋むという生易しい表現では足りなかった。背骨が、肋骨が、何本も一斉に折れる感触が、内側からはっきりと伝わってくる。それでも悲鳴は出なかった。代わりに、皮膚の裂け目という裂け目から、金色の糸が噴き出すように溢れて、傷口を覆っていく。
修復のための光。けれどその光は、人間の血よりもずっと静かで、ずっと美しくて、それがどうしようもなく恐ろしかった。
自分の上で、ナージャは無傷だった。
「……サキ」
声が震えていた。今度は名前を呼ぶだけで、その先が続かない。
サキは潰れた喉の奥で、笑おうとした。うまくいったかは分からない。
ただ、腕の一本と、背骨のいくつかと引き換えに、目の前にいる人間が傷一つなく息をしているという事実だけが、今のサキにとって唯一、確かめる価値のあることだった。
金の光が、千切れた肩の断面でゆっくりと渦を巻き始める。何かを――誰かの形を、もう一度組み上げようとするみたいに。
その光を見下ろすナージャの顔に浮かんでいたのが、恐怖なのか、それとも別の何かなのか。
サキにはまだ、判断がつかなかった。




