病棟
二時間歩いた先に、白い建物が立っていた。外壁の白さだけが、周囲の廃墟と違った。汚れていたが、崩れてはいない。窓ガラスが、ほとんど無傷のままだった。それが、かえって不気味だった。
壊れているものは、正直だ。
壊れていないものが、この世界では怖い。
「静かすぎる」
ナージャが、短銃を確かめながら言った。
「グリッチが出るって言ってたけど、外には何もいない」
「中にいる、ということだな」
正面玄関のガラス扉は、内側から押さえられていた。押さえているものが何なのか、外からは判断がつかなかった。裏口を探して、搬入口のシャッターから中に入った。
空気が変わる。
病院の匂いを、サキは知っていた。消毒液と、古い空気と、人の体の匂いが混ざった、特有の密度。それが今は——消毒液の匂いだけが残って、人の気配が完全に抜けていた。
非常灯が、廊下の天井に等間隔で灯っている。電力が生きていた。
「電気が通ってる」
「発電機がまだ動いてる」
二人で、見取り図と照らし合わせた。さくら病棟、四階。エレベーターは使えないと仮定して、非常階段を探した。
一階の廊下を進んだ。
音がする。
遠い。そして、規則的だった。
ピッ、ピッ、ピッ——
心電図モニターの音だった。どこかで、まだ動いている。患者がいるわけがない。それでも、音だけが続いていた。
「気にするな」
ナージャが、前を歩きながら言った。
「わかってる」
でも、足が少し遅くなった。
非常階段を上がった。一階、二階、三階——踊り場ごとに、扉の向こうを確認する。どこも、静かだった。静かすぎた。
四階の扉を開けた瞬間、匂いが変わった。
消毒液ではなかった。
何かが、腐っている匂いではない。もっと別の——金属と有機物が混ざったような、鼻の奥を刺す匂いだった。
廊下の先に、チューブがあった。
点滴のチューブだった。一本ではなかった。何十本——何百本かわからない量のチューブが、天井から床から壁から、縦横無尽に張り巡らされていた。蜘蛛の巣ではなかった。血管のようだ。壁を這い、扉の隙間を通り、床の亀裂から伸び出して、廊下の空間全体を埋めていた。
その中を、何かが流れていた。
液体ではなかった。光だ。弱く、青白く、断続的に——チューブの中を、パターン・ゼロの信号が流れていた。
「……何、これ」
「進め。走れるか」
ナージャが、チューブを一本手で払いのけた。その瞬間、チューブ全体が、ぴくりと動いた。
生きている。
「走れ!」
二人で駆け出した。
チューブが追ってきた。壁から引き剥がれて、床から持ち上がって——追いかけてくるのではなく、空間そのものが縮んでくるような動き方だった。四〇八号室の番号が、廊下の奥に見えた。チューブの密度が増した。
ナージャの肩に、チューブが巻きついた。
「ナージャ!」
引き剥がそうとした。チューブが、指に絡んだ。引っ張ると、千切れた——千切れた端から、また伸びてきた。
一本切っても、また増える。
「四〇八は、すぐそこだ、行け!」
「離さない——」
「俺のことはいいから先に行け!」
サキは、ナージャの腕を掴んで、引きずるように走った。
四〇八号室の扉を、体当たりで開けた。
部屋の中は、廊下よりチューブが少なかった。窓が一つ、割れていた。そこから外の空気が入っていた。チューブが窓際を避けるように、壁際にだけ這っていた。
窓際のベッド。
その上に、木の箱があった。
小さかった。手のひらに収まるくらいの、ひどく素朴な木の箱だった。
サキは走って、それを掴む。
その瞬間、部屋の扉が閉まった。
チューブが扉を塞いだのだった。扉の隙間から、チューブが押し入ってくる。ナージャが短銃を構えた。
「銃が効くの」
「わからない。でもやる」
銃声が、部屋に轟く。
チューブが、弾かれた。また伸びてきた。
壁から、チューブが集まってくる。天井から、垂れ下がってきた。部屋の空間が、狭くなる速度が、廊下より速い。
ナージャの肩口の包帯が、赤く滲んでいた。
「傷口が——」
「わかってる」
「ナージャ——」
「そんなことわかッてる!」
チューブが、二人を中心に収束してきた。
サキは、金色の糸を走らせた。全身に、同時に。腕から、足から、肩から——チューブに触れた箇所を、ロゴス・ウイルスが焼き切ろうとした。
焼き切れなかった。
一本、切れた。次の一本が来た。また切れた。また来た。数が多すぎた。
廊下にあった全てのチューブが、この部屋へ向けて収束しているとしたら——数で負けていた。
「サキ」
ナージャが、サキの名前を呼んだ。
叫びではない。昨夜と同じ声の温度で、名前だけを呼んだ。
サキは、ナージャを見た。
肩の包帯が、もう赤黒く染まっている。それでもナージャは銃を構えていた。弾が、何発残っているのかは、わからなかった。
「オルゴール、持ってるか」
「持ってる」
「なら、半分は成功だ」
強がりではなかった。本当にそう思っている声だった。
それが、余計に胸を締めた。
チューブが、また一段、狭まる。
窓の外の空はまだ明るかった。逃げ場は窓しかない。でも、ここは四階だ。
ナージャの弾が、また一発鳴った。
チューブの中を流れる光が、強くなる。
収束する速度がさらに上がった。




