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第七人類絶滅報告書  作者: ななめハンバーグカルパス
第四部 デルタは目を瞑る
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病棟

 二時間歩いた先に、白い建物が立っていた。外壁の白さだけが、周囲の廃墟と違った。汚れていたが、崩れてはいない。窓ガラスが、ほとんど無傷のままだった。それが、かえって不気味だった。


 壊れているものは、正直だ。

 壊れていないものが、この世界では怖い。


「静かすぎる」


 ナージャが、短銃を確かめながら言った。


「グリッチが出るって言ってたけど、外には何もいない」


「中にいる、ということだな」


 正面玄関のガラス扉は、内側から押さえられていた。押さえているものが何なのか、外からは判断がつかなかった。裏口を探して、搬入口のシャッターから中に入った。


 空気が変わる。


 病院の匂いを、サキは知っていた。消毒液と、古い空気と、人の体の匂いが混ざった、特有の密度。それが今は——消毒液の匂いだけが残って、人の気配が完全に抜けていた。


 非常灯が、廊下の天井に等間隔で灯っている。電力が生きていた。


「電気が通ってる」


「発電機がまだ動いてる」


 二人で、見取り図と照らし合わせた。さくら病棟、四階。エレベーターは使えないと仮定して、非常階段を探した。


 一階の廊下を進んだ。

 音がする。

 遠い。そして、規則的だった。


 ピッ、ピッ、ピッ——


 心電図モニターの音だった。どこかで、まだ動いている。患者がいるわけがない。それでも、音だけが続いていた。


「気にするな」


 ナージャが、前を歩きながら言った。


「わかってる」


 でも、足が少し遅くなった。


 非常階段を上がった。一階、二階、三階——踊り場ごとに、扉の向こうを確認する。どこも、静かだった。静かすぎた。


 四階の扉を開けた瞬間、匂いが変わった。

 消毒液ではなかった。

 何かが、腐っている匂いではない。もっと別の——金属と有機物が混ざったような、鼻の奥を刺す匂いだった。


 廊下の先に、チューブがあった。


 点滴のチューブだった。一本ではなかった。何十本——何百本かわからない量のチューブが、天井から床から壁から、縦横無尽に張り巡らされていた。蜘蛛の巣ではなかった。血管のようだ。壁を這い、扉の隙間を通り、床の亀裂から伸び出して、廊下の空間全体を埋めていた。


 その中を、何かが流れていた。


 液体ではなかった。光だ。弱く、青白く、断続的に——チューブの中を、パターン・ゼロの信号が流れていた。


「……何、これ」


「進め。走れるか」


 ナージャが、チューブを一本手で払いのけた。その瞬間、チューブ全体が、ぴくりと動いた。

 生きている。


「走れ!」


 二人で駆け出した。


 チューブが追ってきた。壁から引き剥がれて、床から持ち上がって——追いかけてくるのではなく、空間そのものが縮んでくるような動き方だった。四〇八号室の番号が、廊下の奥に見えた。チューブの密度が増した。


 ナージャの肩に、チューブが巻きついた。


「ナージャ!」


 引き剥がそうとした。チューブが、指に絡んだ。引っ張ると、千切れた——千切れた端から、また伸びてきた。


 一本切っても、また増える。


「四〇八は、すぐそこだ、行け!」


「離さない——」


「俺のことはいいから先に行け!」


 サキは、ナージャの腕を掴んで、引きずるように走った。

 四〇八号室の扉を、体当たりで開けた。


 部屋の中は、廊下よりチューブが少なかった。窓が一つ、割れていた。そこから外の空気が入っていた。チューブが窓際を避けるように、壁際にだけ這っていた。


 窓際のベッド。

 その上に、木の箱があった。

 小さかった。手のひらに収まるくらいの、ひどく素朴な木の箱だった。


 サキは走って、それを掴む。


 その瞬間、部屋の扉が閉まった。

 チューブが扉を塞いだのだった。扉の隙間から、チューブが押し入ってくる。ナージャが短銃を構えた。


「銃が効くの」


「わからない。でもやる」


 銃声が、部屋に轟く。

 チューブが、弾かれた。また伸びてきた。


 壁から、チューブが集まってくる。天井から、垂れ下がってきた。部屋の空間が、狭くなる速度が、廊下より速い。


 ナージャの肩口の包帯が、赤く滲んでいた。


「傷口が——」


「わかってる」


「ナージャ——」


「そんなことわかッてる!」


 チューブが、二人を中心に収束してきた。

 サキは、金色の糸を走らせた。全身に、同時に。腕から、足から、肩から——チューブに触れた箇所を、ロゴス・ウイルスが焼き切ろう(崩壊しよう)とした。


 焼き切れなかった。


 一本、切れた。次の一本が来た。また切れた。また来た。数が多すぎた。

 廊下にあった全てのチューブが、この部屋へ向けて収束しているとしたら——数で負けていた。


「サキ」


 ナージャが、サキの名前を呼んだ。

 叫びではない。昨夜と同じ声の温度で、名前だけを呼んだ。


 サキは、ナージャを見た。


 肩の包帯が、もう赤黒く染まっている。それでもナージャは銃を構えていた。弾が、何発残っているのかは、わからなかった。


「オルゴール、持ってるか」


「持ってる」


「なら、半分は成功だ」


 強がりではなかった。本当にそう思っている声だった。

 それが、余計に胸を締めた。

 チューブが、また一段、狭まる。


 窓の外の空はまだ明るかった。逃げ場は窓しかない。でも、ここは四階だ。

 ナージャの弾が、また一発鳴った。

 チューブの中を流れる光が、強くなる。


 収束する速度がさらに上がった。

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