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第七人類絶滅報告書  作者: ななめハンバーグカルパス
第四部 デルタは目を瞑る
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クラゲの夜

 眠れなかった。


 眠れない、という感覚が久しぶりだった。疲労がなければ眠気も来ない、という単純な話ではなかった。疲労がなくても、眠ることはできた——眠ることと、眠れないことは、別の話だった。


 今夜は後者だった。


 スタッフルームにあった毛布を借りて、ナージャはとっくに目を閉じていた。肩の傷が、まだ完全ではない。眠るのが正しかった。サキも横になっていたが、天井を見ていた。


 聞こえるのは、ポンプの音だけだ。


 水が循環する、低く一定の音。それ以外は、何もない。廃墟の夜は静かだが、その静けさの種類が、この場所では違った。


 サキは起き上がり、毛布を羽織って廊下に出た。

 クラゲの水槽が、青く灯っていた。


 ハナさんは、もういなかった。森下が、日が変わる前に、奥の部屋へそっと連れて行っていた。椅子だけが、水槽の前に残っていた。


 その椅子に、サキは座った。


 クラゲが、二匹、ゆっくりと浮いていた。光を孕んで、何も急がずに、水の中を漂っていた。目的地がない動き方だった。でも、どこかへ向かおうとしていないわけでもなかった。ただ、水に任せていた。


「眠れないのか」


 声がした。


 振り返ると、ナージャが廊下に立っていた。毛布を片方の肩にかけている。怪我をしていない方の肩だった。


「起こした?」


「いない気配で気づいた。寝ていたわけじゃない」


「寝たふりだったんだ」


「眠れないとは言いたくなかった」


 ナージャが、サキの隣に来た。椅子は一つしかない。ナージャは床に直接座った。


 二人で、クラゲを見た。


「森下さんのこと、考えてた」


 サキが、先に口を開いた。


「俺もだ」


「三ヶ月、声をかけられなくて」


「床に落ちた本が、喋るきっかけになった」


「そう」


「それだけのことで、人生が変わる」


 ナージャが、膝を抱えた。


「あの奥さんが、今も何かを感じているのかどうか——俺には、わからない。でも、森下は信じてる」


「届くかどうか、わからなくても、って言ってた」


「ああ」


 クラゲが、一匹だけ、水槽のガラス際まで来た。青い光が、二人の顔をすぐそばから照らした。


「お前は——」


 ナージャが、クラゲを見たまま言った。


「エレナに、全部、届いてると思うか」


 サキは、少し考えた。


「全部かは、わからない」


「でも?」


「でも、届いてほしいと思ってるものは——届いてると思う。思いたい」


「それで、十分かもしれないな」


 ナージャが、横を向いた。サキと目が合う。


 青い光の中で、ナージャの目が、昼間とは少し違う色をしていた。夜の光の中でしか出ない色というものがある、とサキは思った。


「お前の指輪」


 ナージャが、サキの左手に目をやった。

 ポケットではなく、今日は指にはめていた。いつそうしたのか、自分でも気づいていなかった。


「さっき、気づいた」


「うん」


「よく似合う、と言っただろう」


「言った」


「今も、そう思う」


 ナージャの声が、少しだけ、違う調子になった。断言する時の声ではなかった。もっと、慎重に言葉を選んでいる声だった。


「昼間より今の方がよく見える」


「暗いのに?」


「暗いからだ」


 サキは、自分の指を見た。赤い石が、青い光を受けて、深い色をしていた。


「ナージャ」


「なんだ」


「あの、廃墟のブランド店で」


「うん」


「あなたが私の指輪を選んだ時——」


 言いかけて、言葉が見つからなかった。言葉がないわけではなかった。言葉の置き場所が、わからなかった。

 ナージャは、その続きを急かさなかった。この人は、いつも待つのが上手だ。


 ユカを待っていたからかもしれない、とサキは思った。


「その時から、何か変わった気がする」


「どこが」


「うーん……あなたの印象」


 ナージャが、少し笑った。


「俺の方が先に変わってた」


「え?」


「ウラジオストクの桟橋で、お前が笑った時から」


 サキは、何も言えなかった。あの瞬間を見られていたのか。


「笑うやつは信用できる。真顔が上手いやつより、笑える方が、本物だと思ってる」


「それは、基準が独特だと思う」


「お前に言われたくない」


 ナージャが、膝を抱えたまま、少し横へ傾いた。距離が縮まる。


「……俺が撃たれたときのお前の慌てっぷりときたら」


「恥ずかしいから、だまって」


「恥ずかしくない」


 断言。今度は、慎重さのない断言だった。


「俺は——あの瞬間に、お前のことを」


 サキの心臓が一拍だけ、遅れた。

 水槽の中で、クラゲがまた光の中へ浮かんだ。


「ナージャ——」


「言わなくていい」


 ナージャが、サキの左手を取った。指輪のある手を。指を包むように、握った。


「今夜は、これだけでいい」


 強くも、弱くもなかった。

 サキは、その手を握り返した。


 クラゲが、二匹とも、水槽の中心に集まっていた。光が重なる。

 ポンプの音が、続いていた。


「明日、病院には一人で行ってくる」


「俺も行く」


「怪我が」


「問題ない」


「……わかった」


 二人で、しばらくそのままでいた。

 届くかどうか、わからなくても。

 それでも、そこに行く理由があった。


 サキは、握られた手の温かさを確かめた。

 今夜はこれだけでいい。

 ナージャが、そう言った意味がわかった。

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