クラゲの夜
眠れなかった。
眠れない、という感覚が久しぶりだった。疲労がなければ眠気も来ない、という単純な話ではなかった。疲労がなくても、眠ることはできた——眠ることと、眠れないことは、別の話だった。
今夜は後者だった。
スタッフルームにあった毛布を借りて、ナージャはとっくに目を閉じていた。肩の傷が、まだ完全ではない。眠るのが正しかった。サキも横になっていたが、天井を見ていた。
聞こえるのは、ポンプの音だけだ。
水が循環する、低く一定の音。それ以外は、何もない。廃墟の夜は静かだが、その静けさの種類が、この場所では違った。
サキは起き上がり、毛布を羽織って廊下に出た。
クラゲの水槽が、青く灯っていた。
ハナさんは、もういなかった。森下が、日が変わる前に、奥の部屋へそっと連れて行っていた。椅子だけが、水槽の前に残っていた。
その椅子に、サキは座った。
クラゲが、二匹、ゆっくりと浮いていた。光を孕んで、何も急がずに、水の中を漂っていた。目的地がない動き方だった。でも、どこかへ向かおうとしていないわけでもなかった。ただ、水に任せていた。
「眠れないのか」
声がした。
振り返ると、ナージャが廊下に立っていた。毛布を片方の肩にかけている。怪我をしていない方の肩だった。
「起こした?」
「いない気配で気づいた。寝ていたわけじゃない」
「寝たふりだったんだ」
「眠れないとは言いたくなかった」
ナージャが、サキの隣に来た。椅子は一つしかない。ナージャは床に直接座った。
二人で、クラゲを見た。
「森下さんのこと、考えてた」
サキが、先に口を開いた。
「俺もだ」
「三ヶ月、声をかけられなくて」
「床に落ちた本が、喋るきっかけになった」
「そう」
「それだけのことで、人生が変わる」
ナージャが、膝を抱えた。
「あの奥さんが、今も何かを感じているのかどうか——俺には、わからない。でも、森下は信じてる」
「届くかどうか、わからなくても、って言ってた」
「ああ」
クラゲが、一匹だけ、水槽のガラス際まで来た。青い光が、二人の顔をすぐそばから照らした。
「お前は——」
ナージャが、クラゲを見たまま言った。
「エレナに、全部、届いてると思うか」
サキは、少し考えた。
「全部かは、わからない」
「でも?」
「でも、届いてほしいと思ってるものは——届いてると思う。思いたい」
「それで、十分かもしれないな」
ナージャが、横を向いた。サキと目が合う。
青い光の中で、ナージャの目が、昼間とは少し違う色をしていた。夜の光の中でしか出ない色というものがある、とサキは思った。
「お前の指輪」
ナージャが、サキの左手に目をやった。
ポケットではなく、今日は指にはめていた。いつそうしたのか、自分でも気づいていなかった。
「さっき、気づいた」
「うん」
「よく似合う、と言っただろう」
「言った」
「今も、そう思う」
ナージャの声が、少しだけ、違う調子になった。断言する時の声ではなかった。もっと、慎重に言葉を選んでいる声だった。
「昼間より今の方がよく見える」
「暗いのに?」
「暗いからだ」
サキは、自分の指を見た。赤い石が、青い光を受けて、深い色をしていた。
「ナージャ」
「なんだ」
「あの、廃墟のブランド店で」
「うん」
「あなたが私の指輪を選んだ時——」
言いかけて、言葉が見つからなかった。言葉がないわけではなかった。言葉の置き場所が、わからなかった。
ナージャは、その続きを急かさなかった。この人は、いつも待つのが上手だ。
ユカを待っていたからかもしれない、とサキは思った。
「その時から、何か変わった気がする」
「どこが」
「うーん……あなたの印象」
ナージャが、少し笑った。
「俺の方が先に変わってた」
「え?」
「ウラジオストクの桟橋で、お前が笑った時から」
サキは、何も言えなかった。あの瞬間を見られていたのか。
「笑うやつは信用できる。真顔が上手いやつより、笑える方が、本物だと思ってる」
「それは、基準が独特だと思う」
「お前に言われたくない」
ナージャが、膝を抱えたまま、少し横へ傾いた。距離が縮まる。
「……俺が撃たれたときのお前の慌てっぷりときたら」
「恥ずかしいから、だまって」
「恥ずかしくない」
断言。今度は、慎重さのない断言だった。
「俺は——あの瞬間に、お前のことを」
サキの心臓が一拍だけ、遅れた。
水槽の中で、クラゲがまた光の中へ浮かんだ。
「ナージャ——」
「言わなくていい」
ナージャが、サキの左手を取った。指輪のある手を。指を包むように、握った。
「今夜は、これだけでいい」
強くも、弱くもなかった。
サキは、その手を握り返した。
クラゲが、二匹とも、水槽の中心に集まっていた。光が重なる。
ポンプの音が、続いていた。
「明日、病院には一人で行ってくる」
「俺も行く」
「怪我が」
「問題ない」
「……わかった」
二人で、しばらくそのままでいた。
届くかどうか、わからなくても。
それでも、そこに行く理由があった。
サキは、握られた手の温かさを確かめた。
今夜はこれだけでいい。
ナージャが、そう言った意味がわかった。




