依頼
食事が終わった頃、外で音がした。
不規則で、何かが草を踏む音だった。
森下が、鍋を置いて立ち上がった。
「帰ってきました」
扉を開けると、廊下の暗がりの中に人影があった。
小柄な女性だった。髪が長く、乱れていた。スリッパを履いていたが、片方が脱げている。虚ろな瞳が、廊下の先のクラゲの水槽へ向いていた。
森下が、スリッパを拾って、そっと女性の足元に戻した。
「ハナさん、帰ってきてくれた」
声が、穏やかだった。返事はなかった。それを予期していた声だった。
女性——ハナさんが、水槽の方へ歩き出した。森下が、その歩調に合わせて横に並ぶ。転ばないように、触れるか触れないかの距離で。
サキは、その背中を見ていた。
ナージャが、小声で言った。
「あの人が、奥さんか」
「そうみたい」
「毎晩、こうして帰ってくるのか」
毎晩ではないかもしれない。帰ってこない夜もあるかもしれない。それでも、森下は「きっと帰ってきます」と言った。その「きっと」が、どんな重さを持っているのか、少しだけわかった気がした。
森下が戻ってきたのは、しばらく経ってからだった。
ハナさんを、水槽の前の椅子に座らせてきたらしい。
「いつも、あそこにいます。クラゲを見ているんです」
「意識はあるんですか」
「わかりません。でも、あそこに座っている時が、一番——穏やかに見える」
森下が、自分のコップを持った。お茶は冷めていた。それでも、一口飲む。
「出会いを、聞いてもいいですか」
サキがそう尋ねた。
森下が、驚いた顔をした。聞かれると思っていなかったのかもしれなかった。けれど、すぐに柔らかい顔に戻った。
「病院でした」
「患者として?」
「私は、見舞いの方でした。父が入院していて。ハナさんは、同じ病棟にいた。窓際のベッドで、いつも本を読んでいた」
「話しかけたんですか」
「なかなか、できませんでした。三ヶ月くらい」
「三ヶ月」
「病院というのは、不思議な場所で——外の時間と、切り離されているみたいでしょう。毎週、同じ廊下を歩いて、同じ窓際の人を見て、でも声をかける理由が見つからなくて」
森下が、遠くを見た。コップの中のお茶を見ているようだった。
「ある日、本が床に落ちたんです。ハナさんの本が。私がそれを拾って、それだけで、話が始まった」
「どんな本だったんですか」
「海の図鑑でした」
サキは、水槽の方へ視線を向けた。クラゲの青い光が、廊下に滲んでいた。
「それで、水族館が好きだったんですね」
「生まれた時から、ずっと海が好きだったそうです。ただ、身体が弱くて、遠出ができなくて——水族館が一番、海に近かったと」
「一緒に行ったことは」
「一度だけ。体調がいい日に、近所の小さな施設へ。車椅子を押して、二時間ほど。ハナさんが、クラゲの前でずっと動かなくて」
森下が、そこで小さく笑った。
「その時、ここに住めたらいいねって言ってたんです。冗談みたいな話として。でも、私はずっと覚えていた」
ナージャが、何か言いかけて、やめた。サキも黙っていた。
言葉を足す必要が、どこにもなかった。
「それで——」
森下が、また遠くを見た。
「ハナさんが、ここを選んでいる。私には、それで十分です」
しばらく、ポンプの音だけがあった。
「一つ」
森下がコップを置いた。
「お願いができますか。お二人に」
サキは、頷いた。
「ハナさんが入院していた病院が、ここから二時間ほどのところにあります。そこに、取りに戻りたいものがあって」
「取りに行かなかったんですか?」
「行こうとしたことはあります。三度」
森下が、手を見た。左の手の甲に、古い傷跡があった。
「三度とも、途中で引き返すことになりました。あの病院の周辺は——大沈黙以降、人が近づけない状態になっていて」
「グリッチが出る」
「それだけではなくて。建物の中に、何かがいる。私には、判断できなかった。でも、あなたたちなら——」
視線が、サキの腕へ落ちた。
金糸の痕が、まだうっすらと残っていた。
「取りに行けるかもしれないと思って」
森下が、立ち上がった。棚の引き出しを開けて、小さな紙を出してきた。
病院の見取り図だった。手書きで、細かかった。何度も修正した跡があった。
「ハナさんの、病室の窓際に。小さな木の箱があります。私が、結婚記念日に贈ったものです」
「指輪ですか」
「いえ、オルゴールです。一度だけ、一緒に聴いた。その後、ハナさんの状態が悪くなって、病室から荷物を引き上げる余裕がなくて、そのまま置いてきてしまいました」
森下が、見取り図をサキへ渡した。
「ハナさんが今、何を感じているのか——私には、わかりません。でも、あの音を、もう一度聴かせてあげたいんです。届くかどうか、わからなくても」
サキは、見取り図を受け取った。
病棟の名前が、端に書いてあった。『さくら病棟、四〇八号室』
「何の曲ですか」
「『海の声』という曲です。ハナさんが好きだった」
水槽の向こうで、クラゲが一匹、ゆっくりと沈んだ。
ナージャが、サキの隣に来る。見取り図を一緒に覗き込んで、「行くか」とだけ言った。
問いの形だったが、答えを求めているわけではない。
すでに、決まっていた。




