水族館の住人
富士山まで、まだ二日の道のりがあった。
ナージャの肩の傷が、想定より早く塞がっていた。動けないわけではなかった。ただ、無理をすれば開くのは確実だったから、その日は早めに歩を止めることにした。
廃れた建物を探して、サキが先に気づいた。
「あれ」
道の脇から、大きな看板が傾いていた。文字は半分消えていたが、残った部分に、魚の絵が見えた。フォントが丸くて、かつては子供向けの施設だったとわかる。
「水族館、かな」
「ああ……入ったことがないな」
「私は、一度だけ——」
どこだったか、と記憶を探した。F.C.E.U.の任務の移動中に、車窓から見えた看板だったかもしれない。中へ入ったわけではなかった。
入り口のシャッターは、半分だけ開いていた。何かで支えてある。誰かが、開けておいたのだ。
ナージャが、顎をしゃくる。
先に入った。
建物の中は、暗かった。非常灯が二つ、薄ぼんやりと廊下を照らしていた。電力がある。わずかだが、この施設はまだ生きていた。
足を進めると、水の音がした。
流れる水の音ではなく、循環する水の音だった。ポンプの音が、かすかに床を伝っていた。
廊下の先に、光があった。
青い光だった。
水槽だ、とわかるより先に、その色の美しさが、足を止めさせた。
大きな水槽の内側から、青い光が廊下へ滲み出していた。中に何かがいる。魚ではなかった。クラゲだ。透明な傘が、ゆっくりと開閉しながら、水の中を漂っている。数は少なかったが、その少なさが、かえって一匹一匹を際立たせていた。
「綺麗だ」
ナージャが、珍しく感嘆の声をあげた。
サキも、しばらく見ていた。クラゲが航海中に見た海洋生物と同じ種族だとは、頭のどこかが知っていた。それでも、この光の中で漂うものは、脅威ではなかった。ただ、光を孕んで、揺れているだけだった。
「――誰ですか」
突然、背後から声をかけられ、二人とも同時に振り返った。
そこには一人の男が立っていた。
五十代か、六十代か——年齢が、顔の皺と目の若さで矛盾していて、判断がつかなかった。エプロンをつけており、手にバケツを持っていた。
「……いや、驚かせてすみません」
柔らかい発音だった。
「ここに、住んでいるんですか?」
サキが聞いた。
「はい」
男は、バケツを足元に置いた。
「もう三年になります。妻と一緒に」
「奥さんが?」
「外にいます。今日は、向こうの棟の方へ行っているみたいで」
言い方が、独特だった。「みたいで」という言葉の、確認できないことへの慣れ方が。
「妻は、H-住民なんです」
男が、穏やかに言った。怯えでも、嘆きでも、諦めでもなかった。ただ、事実として告げる声だった。
「私はモリシタといいます。森下誠司」
「サキ。アオイ・サキ」
「ナージャだ」
森下が、二人を見て、ゆっくりと頷いた。
「よろしければ、中へ。食事の支度をしようと思っていたところです」
サキは、ナージャを見た。
ナージャが肩をすくめる。
それで決まった。
奥に、居住空間があった。水槽の並ぶ展示室を抜けた先に、スタッフルームだったらしい部屋が、丁寧に片づけられていた。毛布、缶詰の棚、鍋、蝋燭。雑然としていたが、整理の仕方に意志があった。
「妻が」
森下が、鍋に火をつけながら言った。
「水族館が好きだったんです。ずっと、住みたいと言ってまして」
「住みたい、ですか」
「病気だったんです。外へ出られない時期が長くて。でも、水族館には行きたい、と言い続けていた。ガラスの向こうに魚がいて、光があって——そういう場所に、住んでみたいと」
火が安定した。鍋の中で何かが煮え始める音がした。
「叶えてあげられなかった。ずっと、入院しなければならなかったから」
「でも、今はここにいる」
サキは言った。
森下が、振り返る。穏やかな顔だった。悲しみの形をしていたが、その悲しみが腐っていなかった。
「大沈黙の後、妻は病院の外へ出るようになりました。最初は怖かった。でも、追いかけて見ていると——いつも、ここへ来るんです。この水族館へ」
「それで、あなたも」
「妻と一緒にいたかったので」
サキは、その言葉の軽さと重さを、同時に受け取った。
「奥さんは、今も——以前の病気の症状があるんですか?」
サキが、慎重に聞いた。
「それが不思議なことに」
森下が、また鍋を見た。
「H-住民になってから、発作がなくなりました。倒れなくなった。呼吸が乱れることも。身体は、何かによって——保たれているみたいです」
サキは、隣のナージャを見た。
ナージャは、クラゲの水槽の方を向いていた。青い光が、その横顔を照らしていた。肩の傷を、そっと押さえていた。
病気が、H-住民化によって無効化されることがある。
サキは、頭の中で言葉にした。声には出さなかった。でも、この場所で起きていることが、世界のどこかにある別の事例と、また一本、繋がった気がした。
「食べていけるのか、ここで」
ナージャが、森下に向かって言った。
「なんとか。近くに、まだ生存しているコミュニティがあって、物資を分けてもらっています。お返しに、水を運んだり、修理を手伝ったりして」
「水族館の水は」
「ポンプが生きているうちは、持ちます」
森下が、三人分のお椀を出した。
「今夜は、ここにいてください。妻も帰ってきます。きっと」
サキは、水槽の方を見た。クラゲが、また一匹、ゆっくりと浮かんで沈んだ。
光の中で揺れるものは、何も言わなかった。
ただ、揺れていた。




