敵という名前
廃ビルの一室に、毛布と救急箱が広げられた。
隊員たちは、手際よく動いた。命令に忠実で、迷いのない動きだった。
リアムの優先度最大という言葉が、今も空気に残っているような感触があった。
ナージャの肩口の処置をしている隊員を、ナージャ自身が睨みつけていた。
「変な真似したら、ぶっ殺すからな」
「……はい」
隊員が、絆創膏を貼る手を止めずに答えた。プロだった。この種の脅しには慣れているのかもしれなかった。
「聞こえたか」
「聞こえました」
「よし」
ナージャが、サキの方を一度見た。サキが頷くと、また天井に視線を戻した。体力を温存しているというより、この部屋の中でナージャが信頼できる人間が、サキしかいない、ということだった。
リアムが、入り口に立っていた。
部屋の中に入ってこなかった。サキからちょうど三歩分の位置で、壁に背を預けている。ヘルメットは、床に置いていた。顔が、完全に見えた。殴られた頬骨の腫れが、この角度からもわかった。
「何から話す」
リアムが、先に言った。
「あなたが決めて」
「わかった」
息を一つ吐いて、リアムが床を見た。考えている顔ではなかった。どこから言葉を出すか、順番を探している顔だった。
「文明復興庁は、お前たちを敵と認定している」
「知ってた」
「正式な認定だ。サキ・アオイとエレナ・ペトロヴァ——二人の名前が、文書の中に並んでいる。アーク施設からのクラスIVハザード持ち出しと、収容対象者の無断移送。それが、正式な告発内容だ」
クラスIVハザード。エレナが、そう呼ばれていたことは知っていた。エレナ自身も知っていた。それでも、文書の中に「エレナ・ペトロヴァ」という名前が並んでいると聞くと、胃の下が冷えた。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
リアムが、壁から背を離した。部屋の中へ、一歩だけ入った。
「告発以降、F.C.E.U.の複数部隊が、二人の追跡に割かれている。チェルノブイリ周辺の監視強化、出入国ポイントの網羅、通信の傍受——お前が旧チャンネルに触れた時、即時に記録が上がってきた」
「やっぱり」
「追跡を続けていたのは俺の部隊だけじゃない。少なくとも三系統の部隊が、それぞれ別のルートで動いている」
三系統。
つまり、旅のどこかで、別の誰かにも見られていた可能性がある、ということだった。ウラジオストクの桟橋か、航海の途中か、日本へ入る前か。メビウスのルートは非公式だったが、完全に見えないわけではない。
「文明復興庁は、なぜそこまでする」
「わからない」
「リアム」
「本当に、わからないんだ」
声の質が変わった。
「命令は来る。案件番号がついて、優先度がついて、行動指示がついて来る。誰が出したのかは、どこにも書いていない。俺が直属で受けているのも、命令文だけだ。その上に誰がいるのか——会ったことがない」
「会ったことが、ない」
「一度もない」
サキは、それをしばらく咀嚼した。ヴァディムに話した時、ナージャが叫んだ時——同じことを、また別の角度から聞かされていた。F.C.E.U.の内側にいる人間でも、知らない。それは、組織が秘密にしているというより、組織の形そのものが、顔を持たない構造になっているということだった。
命令が歩いている。
人間の手を借りて、でも人間の顔を持たずに。
「ナージャを撃ったのは」
「狙撃手への命令だ。サイレントゾーン周辺の非H-住民は、交戦規則に従って処理する、と」
処理する、という言葉が部屋に落ちた。
ナージャが、天井から視線を外さないまま、鼻を鳴らした。
「処理ね」
「すまなかった」
「俺に言うな」
ナージャが、今度だけリアムを見た。
「謝りたいなら、命令した顔のない何かに言え。お前は道具だったんだろう」
リアムは、何も言わなかった。
言えなかったのか、言わないことにしたのか、サキには判断がつかなかった。ただ、その沈黙が否定の形をしていないことはわかった。
「話を続けて」
サキは続ける。
「日本で何が起きてるの」
リアムが、また壁に背を預けた。
「三ヶ月前から、H-住民の行動パターンに変化が出ている。日本国内に散らばっていた個体群が、特定の方角へ向けて、自発的に移動を始めた」
「方角は」
「南西。富士山の方角と、おおよそ一致している」
富士山。
言葉が、体の中の何かに触れた。
「コーラルの続報も来ている」
リアムが、続けた。
「海洋域に広がっていたコーラル型のH-住民群——大型個体が、海底から陸へ上がろうとしている動きが、複数地点で確認されている。日本沿岸にも、その動きがある」
「どこから上がろうとしてる」
「それが——富士山周辺の海岸線と、地理的に重なる」
部屋が静かになった。
ナージャの処置をしていた隊員が、動きを止めた。
自分が聞いていい話ではないと判断したのか、手だけを動かし続けていた。
「コーラルもH-住民も、同じ方向へ向かっている」
サキは、頭の中で重ねた。チェルノブイリで東を向いたH-住民の瞳。廃墟の東京で道の真ん中に立ち尽くしていたH-住民の唇。三、六、九——繰り返されるリズム。それが全部、同じ方向へ向いていた。
「あなたは、どう考えてる」
「H-住民の行動原理が、どこかへ向かっている、と思う」
リアムが、静かに言った。
「発信源がある。あるいは、引き寄せている何かが、富士山の方角に存在する」
サキは、黙っていた。
黙りながら、エレナの端末に残っていた言葉を、頭の中で取り出した。
エレナが何を知っていて、何を隠していたのか。
さらに、エレナは何らかを受信する装置をサルコファガスで作っていた。
その事実を、ここで出す気にはなれなかった。エレナが今どこにいるのかも、何を追っているのかも——リアムに渡せる情報ではなかった。文明復興庁の案件の中に、エレナの名前がある。それだけで、十分な理由だった。
「日本に来たのは、その話と関係があるか」
リアムが、サキを見た。
「ある」
嘘はつかなかった。
「H-住民が向かっている先に、理由があると思った。それを確かめたかった」
「エレナは」
「わからない」
平らな声で、言った。
「一緒じゃない。それだけ」
リアムが、サキの目をしばらく見ていた。嘘なのか見極めているのか、それとも別のものを探しているのか。
「……そうか」
それだけ言って、視線を外した。
追及しなかった。するつもりがないのか、できないと判断したのか——いずれにせよ、リアムはそれ以上エレナの名前を出さなかった。
「お前は、富士山へ向かうつもりか」
「たぶん」
「F.C.E.U.は、その方向への調査を進めている。お前とかち合う可能性がある」
「知ってる」
「味方にはなれない」
「知ってる」
「だが」
リアムが口を閉じた。閉じてから、また開いた。
「今夜だけ、見ていない。お前たちのことを」
サキは、リアムの顔を見た。
殴った顔だった。腫れていた。それでも、その目がどこかで揺れていた。
「その選択は、あなたが決めたの」
「命令じゃない」
「そう」
サキは、視線をナージャに移した。処置が終わりかけている。
ナージャが、隊員を睨みながらも、呼吸が少し落ち着いていた。
「ありがとう」
リアムに向かって、言った。
「礼を言われる立場じゃない」
「でも言う」
リアムが、ヘルメットを拾い上げた。被らなかった。ただ、抱えていた。
「富士山で、何かを見つけても」
彼が、部屋の入り口に戻りながら言った。
「俺には、連絡するな。俺が動ける状況じゃなくなる」
「知ってる」
「お前は、昔から」
リアムが、言いかけてやめた。
「何」
「変わってない。それだけだ」
そのまま出ていった。
足音が、廊下を遠ざかっていく。
ナージャが、ようやく体を起こした。
隊員が止めようとしたが、「もういい」と一言で黙らせた。
「あいつ、信用できるか」
「わからない」
「正直だな」
「でも、今夜だけは信用する」
ナージャが、肩口を押さえながら、サキの隣に座った。
「富士山か」
「そう」
「遠いのか」
「ここからなら、三日はかかると思う」
「そうか」
ナージャが、また天井を見た。
「俺も行く」
「怪我が」
「三日あれば動ける」
「安静にしててよ」
「お前が言うか。腕の骨を折りながら殴り続けたやつが」
サキは、自分の腕を見る。金糸がほとんど消えていた。
骨はもう繋がっていた。
「……それは、そうかもしれないけど」
「決まりだ」
ナージャが、目を閉じた。
「ユカを探しながら、富士山まで付き合ってやる。ついでの範囲でいいなら」
「はいはい」
廃ビルの外で、風が鳴った。
文明復興庁の命令書には、今頃また何かが打ち込まれているだろう。顔のない文字列が、どこかへ向かって、また人間の足を動かそうとしているだろう。
でも今夜だけは、その文字列が届かない場所にいられる。
サキは、ポケットの中の指輪を指先で触れた。
赤い石が、暗闇の中で少しだけ温かかった。




