名を呼ぶ声
空に、星が増えていた。
それだけが見えている。
体の中では、金色の糸が走り続けていた。一か所塞げば、次が開いている。追いかけっこのような修復が、静かな熱を帯びて続いていた。痛みとして来ているものと、修復の熱として来ているものが、もう区別がつかない。
一斉掃射は、続いていなかった。
いつ止まったのか、わからなかった。銃声が遠のいたのか、自分の聴覚が遠のいたのか、どちらかの理由で、音が急に静かになっていた。
「やめろ」
声がした。
翻訳端末越しではなかった。生の声だ。それでも、歪んでいた。
フルフェイスのヘルメットが、地面から起き上がろうとしている。ゆっくりと。一度、膝をついた。また立とうとして、装甲の継ぎ目から何かが滲んでいた。サキが殴った箇所だった。人間の体が、装甲の下に存在することを、初めて思い出した。
「撃つな。撃ち方やめ」
隊員に向けて、命令していた。声に、抑揚があった。翻訳端末を通していない、人間の声の揺れ方だった。
周囲の気配が、動きを止める。
フルフェイスが、サキの方を向いた。
歩いてきた。ゆっくりと、足を引きずりながら。サキが折れかけた腕で殴り続けた相手が、それでも自分の足で歩いてきた。
距離が縮まる。
ヘルメットの内側から、何かを確認するような間があった。サキを見ていた。体に穿たれた銃弾の跡を、金糸が縫い合わせていく様子を、フルフェイスの向こうから見ていた。
「……お前」
声が、またずれた。今度は別の種類の歪み方だった。
「サキ、なのか」
サキは、地面に倒れたまま、その声を聞いた。
知っている声だった。
歪んでいたが、音の質が、記憶の中の何かと一致した。アークの廊下、通信室の前、端末越しに交わした会話——そのどれかに、この声があった。
「…………リアム」
声が、喉から出てきたことに、自分でも驚いた。
フルフェイスが、また一歩近づいた。
その瞬間、地面を這う音がした。
ナージャだった。
左の肩口が撃ち抜かれたまま、右腕だけで地面を押して、引きずるようにしてこちらへ向かってきていた。唇から、黒い線が顎まで伝っていた。
「おい、動くな——」
「うるさい」
息が切れていた。それでも、声に力があった。
「そこから——離れろ」
フルフェイスに向かって、吐き捨てた。
「離れろと言ってる。聞こえないのか、このゲス野郎」
口から、また血が滲んだ。それでも、声が大きくなった。
「お前ら。サキが何をした!こいつは俺を庇っ—―」
言葉が、咳で途切れた。
それでも、腕を止めなかった。地面を掻いて、また一センチ近づいた。
「てめえら、文明復興庁に従ってんだろう。あんなクソくだらないものに」
吐き捨てる声だった。
「一度でも顔を見たか。声を聞いたか。命令が降ってくる。署名がある。でも顔がない。名前がない——そんなものが、本当に存在すると思ってるのか、犬野郎」
フルフェイスが、止まった。
「お前らが守ろうとしてるのは——」
ナージャが、ようやくサキの腕に触れた。血まみれの指で、サキの手首を握る。
「人間か。それとも、命令書か」
誰も答えなかった。
路地に風だけが通る。
フルフェイスのヘルメットが、内側から、ゆっくりとロックを外す音がした。
外れた。
素顔が出てきた。
三十代の半ば。短く刈った髪。顎に傷跡。サキが殴った箇所が、頬骨の辺りで赤く膨らんでいた。口元に血がにじんでいた。それでも、その目が——サキの顔を見つけた瞬間に揺れた。
「……本当に、お前か」
リアム・マッキンタイアが、そこにいた。
サキは、何も言えなかった。言葉より先に、色々なものが来た。アークの記憶。端末越しの会話。元同僚という以上のものと、元同僚以下になってしまったものが、混ざり合って、言葉の形にならなかった。
「お前が、リアムか」
ナージャが、かすれた声で言った。
「サキが話してた」
リアムが、ナージャを見た。視線が、肩口の傷へ落ちた。
「……狙撃手を、呼び戻す」
周囲の隊員たちへ向かって、言い放つ。声が、また命令の形を取り戻していた。
「二人を手当てしろ。優先度、最大だ」
「対象は——」
隊員の一人が、言いかけた。
「優先度、最大だと言った」
リアムが繰り返した。抑揚がなかった。その抑揚のなさが、かえって有無を言わせない形を持っていた。
隊員たちが、動き始める。
ナージャが、サキの手首を握ったまま、額をサキの肩に預けた。重くなかった。体重をかける力も、もう残っていないのだろう。
「生きてるか」
ナージャが、小さく聞いた。
「生きてる」
「そうか」
息を、細く吐いた。
「お前の友達は、ゲスだったな」
「元同僚」
「元、な。元がついてよかった」
サキは、ナージャの背中に折れかけた腕を回した。骨が軋んだ。構わなかった。
空に、また星が増えている。
リアムが、二人から少し距離を置いて、立っていた。ヘルメットを脇に抱えたまま、どこを見るでもなく、ただ立っていた。
文明復興庁の命令書には、名前がない。顔がない。声がない。どこかで誰かが打ち込んだ文字列が、基底言語として伝達され、人間の口から出る前に命令の形を持っている。従う人間の顔は見えても、命令した人間の顔は、最後まで見えない。そういう組織だった。
いや——組織という言葉すら、正確ではないかもしれない。規則が、自分で歩いて命令を下している。
それに従って、リアムはここに来た。
それに従って、ナージャが撃たれた。
サキを銃弾が貫いた。
でも今、命令を止めたのもリアムだった。
答えを出す気力が、今はなかった。
ナージャの手が、まだサキの手首を握っている。指の力が、少しずつ弱くなっていた。
「離さないで」
サキは、言った。
「言われなくても」
かすれた声が返ってきた。




