裂ける
夕暮れの東京は、静かだった。
橙が紫に変わりきった空の下、二人は廃墟の中を歩いていた。特に目的地はなかった。ナージャが前を歩き、サキが少し後ろ。いつの間にかそうなっていた。
「腹が減った」
ナージャが言った。
「何か見つかるかな」
「見つけてみせる。それが俺の仕事だ」
「頼もしい」
路地の角を曲がったところで、ナージャが立ち止まった。廃ビルの側壁に、何かが書かれていた。スプレーで、荒い文字が。日本語とロシア語と英語が混ざった、解読に時間のかかる落書き。ナージャが顔を近づけて読み始めた。
サキは、その横に立ちながら、空を見た。
紫が、少しずつ黒に変わろうとしている。星が、チェルノブイリで見たものより少ない。街に、まだ何かが残っているせいかもしれない。
銃声が、したのはその瞬間だった。
音ではなかった。最初に来たのは——ナージャの体が、後ろへ弾かれた感触だった。
時間が、一拍だけ止まった。
「——ナージャ!」
声が、喉を裂いた。
駆け寄る足が、自分のものと感じられないほど速かった。地面に倒れたナージャの肩を抱き起こす。左の肩口から、黒い染みが広がっていた。
「ナージャ、ナージャ、聞こえる、ねえ、聞こえてる?!」
「……うるさい」
かすれた声が返ってきた。それだけで、息ができた。
「動いちゃダメ。動かないで。ッ、どこから——」
ビルの高層階だ、と頭の一部が冷静に計算していた。角度からして、南東方向。でも、それを確認する前に、路地の入り口で足音がした。
一人だった。
完全装備だった。頭から足まで、継ぎ目のない黒。フルフェイスのヘルメット。胸部と四肢を覆う装甲が、サキの記憶にあるどのF.C.E.U.装備とも違う形状をしていた。新しい。何世代か、先に進んでいる。
腕に、F.C.E.U.の紋章が光っていた。
何かが、サキの中で音を立てて裂けた。
「お前が——」
声が、自分でも聞いたことのない低さで出た。
「お前が指揮したのか」
相手は答えない。構えを変えただけだった。
視界が赤くなる、というのは比喩ではなかった。本当に、目の端が赤みを帯びた。
ホモ・ロゴス化による何かなのか、ただの怒りなのか、判断する余裕がなかった。
地面を蹴った。
考えていなかった。考える前に、もう走っていた。
相手が銃口を向ける前に、体を低く潜らせる。銃声が後頭部の上を通り過ぎる。そのまま、助走のついた全体重で相手の胸板に激突した。装甲が、金属の軋む音を立てた。
倒れた相手に、馬乗りになった。
「——ナージャを」
拳を振り下ろした。装甲のヘルメットが、地面に激突する音。
「お前らは——何をしてきたんだ」
もう一発。また一発。手の骨が、軋んでいた。
「殺していい人間なんか——どこにもいないだろう——なんで——なんで撃った——」
言葉が、怒鳴り声になり、悲鳴になり、呪詛になった。右手の皮膚が、装甲のエッジで裂けた。わかっていた。わかっていて、止まれなかった。
「お前らは、最初から——人を、数字でしか見てない——コードでしか見てない——」
裂けた手から、金色の糸が浮いた。それでも構わず、振り下ろした。腕の骨に、ひびが入る感触があった。折れかけていた。折れても関係なかった。
「何様のつもりで——何の権利があって——」
何発目かで、腕が上がらなくなった。
折れた。骨が折れていた。痛みは来ていたが、それより先に別のものが来ていた。
それでも、利き手ではない方の腕で続けた。
「ナージャを——返せ——」
返せ、という言葉が、自分で口にして、おかしいと思った。死んでいるわけではない。でも、この怒りに、それ以外の言葉が見つからなかった。
周囲で、足音が増えた。
一人ではなかった。路地の両端、ビルの陰——複数の気配が、じわりと包囲を縮めていた。全員、同じ装備。同じ紋章。
「離れろ」
声がした。翻訳端末を通したような、抑揚のない声だった。
離れなかった。
「最終警告だ」
銃声が、一斉に重なった。
体が、何かに叩かれた。また叩かれた。また。また。一発一発の衝撃が、波のように押し寄せた。人間だったなら、最初の一発で倒れていた。二発目で、動けなくなっていた。それが、何発も来た。
皮膚の下で、金色の糸が一斉に走った。
ロゴス・ウイルスが、今度は悲鳴のような速度で修復を始める。追いつかないほどの損傷が、一か所ずつ塞がれていく。その感触が、痛みとも温かさとも判断がつかない何かだった。
「——サキ!」
ナージャの声が、遠くで割れた。
絶叫。あの人が、あんな声を出すとは。出せるとは思っていなかった。
「サキッ!」
また呼ばれる。
答えようとして、口が動かなかった。
地面が近くなっていた。
いつの間にか倒れていた。馬乗りになっていた相手の上ではなく、地面の上に。空が見える。黒くなりきった空に、星が一つだけあった。
金色の糸が、全身を縫っている感触があった。
まだ、動いている。
「サキぃッ——!」
ナージャの声が、また来た。
答えたかった。答える代わりに、指だけを動かした。




