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第七人類絶滅報告書  作者: ななめハンバーグカルパス
第四部 デルタは目を瞑る
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ドレスアップ

 データの書き出しが終わったところで、ナージャが「行くぞ」と言った。


「どこへ」


「行けばわかる」


 理由を聞く前に歩き出すのは、この人の癖らしかった。

 サキは端末をしまって、後を追った。

 地上に出ると、夕方には少し早い時間の光が、ビルの隙間から斜めに差し込んでいた。


 影が長く伸びる時間。ナージャは迷わず歩いた。この街に来るのが初めてのはずなのに、方角の掴み方に淀みがなかった。


「土地勘がある?」


「ない。ただ、ああいう店は、人通りの多かった場所に固まってる」


 彼女の指の先に、外壁のほとんどが剥落したビルが見えた。一階部分のショーウィンドウだけが、奇妙に無傷で残っていた。ガラスはとっくに割れているが、フレームが、今でも整然と「ここは店です」と主張している。


 ナージャが、躊躇なく中へ入った。


 サキも続いた。


 中は、埃と薄暗さに満ちていた。天井が一部崩れ、そこから光が柱のように差し込んでいる。棚はほとんど倒れていたが、クローゼット代わりのスチールラックが、奥の壁際で辛うじて立っていた。


 衣服が、かかっていた。


 色が褪せ、埃をかぶり、それでも形は残っていた。絹か何か、光沢のある素材のドレスが、何着か。コートが二、三枚。ショーケースの中に、宝飾品が散らばっていた。


「ここだ」


 ナージャが、腕を広げた。満足そうな顔だった。


「ブランド品を見に来たの」


「違う」


 彼女は、ラックに近づいて、ドレスを一枚引き抜いた。


「大沈黙の前、いい女というのは、こういうものを着ていた」


「いい女」


「お前は、その言葉が好きじゃないか」


「別に。ただ、基準がわからない」


「わからなくていい」


 ナージャが、ドレスを体に当てた。深いグリーンの、肩から床まで届く長さのもの。埃を払うと、思っていたより色が鮮やかだった。


「どうだ」


 振り返って、サキに見せる。


 サキは、正直に見た。ナージャの細い輪郭に、グリーンは合っていた。ただ、腰のホルスターと短銃と、絹のドレスの組み合わせが、何か根本的にちぐはぐだった。


「似合ってる、と思う。銃を抜かなければ」


「銃は外さない」


「じゃあ、独自のスタイル」


 ナージャが、鼻を鳴らして笑った。サキも、少し笑った。


「大沈黙の前」


 ドレスを体に当てたまま、ナージャがショーケースを覗き込んだ。


「俺は、こういうものを着る側の人間じゃなかった。船に乗って、荷を運んで、嘘をついて、生き延びる側の人間だった」


「今も同じじゃない」


「生き延びる側は同じだが、着るものが選べる立場になった」


 彼女が、ケースの中からネックレスを拾い上げた。チェーンが、光の柱の中で揺れる。


「文明があった頃、こういうものを身につけた女たちは——大事な場所に行く時に、こういうものを選んだんだろうな」


「大事な場所?」


「誰かに会う場所。認めさせたい場所」


 ナージャが、ネックレスを自分の首に当てた。


「似合うか」


「チェーンが太すぎて、ドレスより銃に似合う」


「正直なやつだな、お前」


「聞いたから」


 ナージャが、ネックレスを戻して、別のものを手に取った。細いチェーンに、緑色の石がついたもの。

 今度は、グリーンのドレスとも釣り合っていた。


「これは?」


「それは似合う」


「そうか」


 鏡がないことに、今さら気づいたような顔をした。

 それでも、チェーンを首にかけたまま、ショーケースの残りを物色しはじめた。


 サキは、ラックに残っていた服を、何気なく手で押した。

 コートが数枚、ドレスが数枚。その奥に、丈の短いジャケットが一枚かかっていた。革ではなく、厚い布素材の、ネイビーブルーのもの。


 引き出してみると、袖口にだけ細い刺繍が入っていた。

 手に取ったまま、少し考えた。

 こういうものを気にしたことが、ほとんどなかった。


 F.C.E.U.の制服は、動きやすければそれでよかった。アークの支給品は、選ぶ余地がなかった。旅に出てからは、保温と耐久性だけが判断材料だった。


「興味はあるか」


 ナージャの声がした。


「え?」


「おしゃれ。身につけるもの、飾るもの」


 ジャケットを持ったまま、サキは振り返った。ナージャが、こちらを見ていた。値踏みではなく、もっと別の目だった。


「ないと思ってた」


「今は?」


「……わからなくなった」


 正直に言うと、ナージャが少し表情を緩めた。


「着てみろ」


「え」


「そのジャケット。着てみろと言ってる」


 逃げる理由がなかった。アウターを脱いで、ジャケットを羽織った。袖が少し長かった。それだけだった。

 ナージャが、しばらく見ていた。


「ネイビーは、お前の色だ」


 断言する口調だった。感想ではなく、事実として言っている。


「そう?」


「暗い色は、肌の色が強い人間によく映える。お前の目の色にも合ってる」


「詳しいんだね」


「元の仕事の残滓だ。荷を扱う前は、別のものを扱っていた時期もある」


 その「別のもの」が何かは、聞かなかった。聞かなくていいとわかる言い方だった。


 袖口の刺繍を、指でなぞった。細い糸で、花か植物か、判別がつかない模様が入っていた。こういうものを誰かが施したのだと思うと、その手の時間が、指先から伝わってくるような気がした。

 考古学者の癖だ、とサキは思った。


 ただ、今回は死者ではなく、大沈黙の前にここで生きていた誰かの、生活の時間だった。


「好きか、そういう細工が」


 ナージャが、また聞いた。


「好き、かどうか」


 言葉を探しながら、サキはジャケットの袖を見た。


「こういうものを作った人のことを、考えてしまう。誰かが、時間をかけて針を動かした。その時間の話を、聞きたくなる」


「考古学者らしい答えだ」


「そう?」


「死んだものから、人の体温を拾うのが好きなんだろう」


 サキは、少し驚いた。それほど正確に言い当てられたことが、意外だった。


「そうかもしれない」


「似てる」


 ナージャが、自分の首のネックレスを、指でつまんだ。


「俺も、荷を運ぶ時に、それが誰の荷なのかを考える。依頼人の顔より、荷物の重さや、包み方から、その人間を想像するのが好きだった」


「それは、少し違う気がする」


「違うか」


「あなたは生きてる人間から想像する。私は死んでる人間から想像する」


 ナージャが、しばらく考えた。「そうだな」と、素直に言った。


 しばらく、二人とも黙った。光の柱が、床の埃をゆっくり動いていた。


 ナージャが、ショーケースの中から、小さなものを拾い上げた。指輪だった。金属の台座に、赤い石が一つついている。ルビーかガーネットか、今の光量ではわからない。


「これを」


 彼女が、サキの左手を取った。

 唐突だったが、サキは引かなかった。


「お前の手に合うかどうか、試したい」


 中指に、はめた。少しだけ緩かったが、落ちるほどではなかった。

 ナージャが、その指輪を灯りの方へかざした。石が、深い赤で光った。


「似合う」


「また断言する」


「似合うものは似合う」


 サキは、自分の指にはめられた指輪を、しばらく見た。こういうものを身につけたことが、ほとんどなかった。F.C.E.U.の任務中、装飾品は邪魔だ。アークでも、誰も持っていなかった。旅の間は、なおさらだった。


 でも、今、これが指にある。


「ちなみに」


 ナージャが、手を放しながら言った。


「あの子は、そういうもの、好きだったか」


「あの子?」


「エレナ」


 サキは、少し考えた。エレナが装飾品を身につけた姿を、見たことがあったか。記憶を探すと、ない。制服と、端末と、白衣の印象しかない。


「興味なさそうだった」


「そうか」


「あなたのユカは?」


「好きだった」


 ナージャが、ショーケースの中に視線を落とした。


「出かける前に、いつも鏡の前で時間をかけてた。俺はそれを待つのが好きだった」


 待つのが好きだった、という言い方が、胸のどこかに引っかかった。


「会えるといいね」


 サキは、言った。


「さあな」


 ナージャが、立ち上がった。


「あったらあったで、どうすればいいかわからん。別れた時、うまいことを言えなかった。今でも思いつかない」


「うまいことを言う必要は、ないんじゃないかな」


「お前はそういうことを、さらりと言う」


「そう?」


「エレナに同じことが言えるか」


 それは、少し痛かった。

 答えの代わりに、サキは左手の指輪を外した。台座に戻そうとして——やめた。

 握ったまま、ジャケットのポケットに入れた。


「それを持っていくのか」


「ダメ?」


「俺が止める理由はない。ここには、もう誰もいない」


 ナージャが、ネックレスを外して、ショーケースに戻した。それだけ律儀だった。


 外へ出ると、日が傾いて、街が橙色に染まっていた。廃墟の東京が、この光の中では、すこしだけ違う顔をした。壊れた建物ではなく、ただ古びた街のように、一瞬、見えた。


「おしゃれって」


 歩きながら、サキは言った。


「なんで、したくなるんだろう」


「誰かに見せたいからだろう」


「見せたい相手がいない時は?」


 ナージャが、少し間を置いた。


「いる時のことを、思い出すためだ」


 サキは、ポケットの中の指輪を指先で触れた。


 東京の空が、橙から紫に変わりはじめていた。

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