ドレスアップ
データの書き出しが終わったところで、ナージャが「行くぞ」と言った。
「どこへ」
「行けばわかる」
理由を聞く前に歩き出すのは、この人の癖らしかった。
サキは端末をしまって、後を追った。
地上に出ると、夕方には少し早い時間の光が、ビルの隙間から斜めに差し込んでいた。
影が長く伸びる時間。ナージャは迷わず歩いた。この街に来るのが初めてのはずなのに、方角の掴み方に淀みがなかった。
「土地勘がある?」
「ない。ただ、ああいう店は、人通りの多かった場所に固まってる」
彼女の指の先に、外壁のほとんどが剥落したビルが見えた。一階部分のショーウィンドウだけが、奇妙に無傷で残っていた。ガラスはとっくに割れているが、フレームが、今でも整然と「ここは店です」と主張している。
ナージャが、躊躇なく中へ入った。
サキも続いた。
中は、埃と薄暗さに満ちていた。天井が一部崩れ、そこから光が柱のように差し込んでいる。棚はほとんど倒れていたが、クローゼット代わりのスチールラックが、奥の壁際で辛うじて立っていた。
衣服が、かかっていた。
色が褪せ、埃をかぶり、それでも形は残っていた。絹か何か、光沢のある素材のドレスが、何着か。コートが二、三枚。ショーケースの中に、宝飾品が散らばっていた。
「ここだ」
ナージャが、腕を広げた。満足そうな顔だった。
「ブランド品を見に来たの」
「違う」
彼女は、ラックに近づいて、ドレスを一枚引き抜いた。
「大沈黙の前、いい女というのは、こういうものを着ていた」
「いい女」
「お前は、その言葉が好きじゃないか」
「別に。ただ、基準がわからない」
「わからなくていい」
ナージャが、ドレスを体に当てた。深いグリーンの、肩から床まで届く長さのもの。埃を払うと、思っていたより色が鮮やかだった。
「どうだ」
振り返って、サキに見せる。
サキは、正直に見た。ナージャの細い輪郭に、グリーンは合っていた。ただ、腰のホルスターと短銃と、絹のドレスの組み合わせが、何か根本的にちぐはぐだった。
「似合ってる、と思う。銃を抜かなければ」
「銃は外さない」
「じゃあ、独自のスタイル」
ナージャが、鼻を鳴らして笑った。サキも、少し笑った。
「大沈黙の前」
ドレスを体に当てたまま、ナージャがショーケースを覗き込んだ。
「俺は、こういうものを着る側の人間じゃなかった。船に乗って、荷を運んで、嘘をついて、生き延びる側の人間だった」
「今も同じじゃない」
「生き延びる側は同じだが、着るものが選べる立場になった」
彼女が、ケースの中からネックレスを拾い上げた。チェーンが、光の柱の中で揺れる。
「文明があった頃、こういうものを身につけた女たちは——大事な場所に行く時に、こういうものを選んだんだろうな」
「大事な場所?」
「誰かに会う場所。認めさせたい場所」
ナージャが、ネックレスを自分の首に当てた。
「似合うか」
「チェーンが太すぎて、ドレスより銃に似合う」
「正直なやつだな、お前」
「聞いたから」
ナージャが、ネックレスを戻して、別のものを手に取った。細いチェーンに、緑色の石がついたもの。
今度は、グリーンのドレスとも釣り合っていた。
「これは?」
「それは似合う」
「そうか」
鏡がないことに、今さら気づいたような顔をした。
それでも、チェーンを首にかけたまま、ショーケースの残りを物色しはじめた。
サキは、ラックに残っていた服を、何気なく手で押した。
コートが数枚、ドレスが数枚。その奥に、丈の短いジャケットが一枚かかっていた。革ではなく、厚い布素材の、ネイビーブルーのもの。
引き出してみると、袖口にだけ細い刺繍が入っていた。
手に取ったまま、少し考えた。
こういうものを気にしたことが、ほとんどなかった。
F.C.E.U.の制服は、動きやすければそれでよかった。アークの支給品は、選ぶ余地がなかった。旅に出てからは、保温と耐久性だけが判断材料だった。
「興味はあるか」
ナージャの声がした。
「え?」
「おしゃれ。身につけるもの、飾るもの」
ジャケットを持ったまま、サキは振り返った。ナージャが、こちらを見ていた。値踏みではなく、もっと別の目だった。
「ないと思ってた」
「今は?」
「……わからなくなった」
正直に言うと、ナージャが少し表情を緩めた。
「着てみろ」
「え」
「そのジャケット。着てみろと言ってる」
逃げる理由がなかった。アウターを脱いで、ジャケットを羽織った。袖が少し長かった。それだけだった。
ナージャが、しばらく見ていた。
「ネイビーは、お前の色だ」
断言する口調だった。感想ではなく、事実として言っている。
「そう?」
「暗い色は、肌の色が強い人間によく映える。お前の目の色にも合ってる」
「詳しいんだね」
「元の仕事の残滓だ。荷を扱う前は、別のものを扱っていた時期もある」
その「別のもの」が何かは、聞かなかった。聞かなくていいとわかる言い方だった。
袖口の刺繍を、指でなぞった。細い糸で、花か植物か、判別がつかない模様が入っていた。こういうものを誰かが施したのだと思うと、その手の時間が、指先から伝わってくるような気がした。
考古学者の癖だ、とサキは思った。
ただ、今回は死者ではなく、大沈黙の前にここで生きていた誰かの、生活の時間だった。
「好きか、そういう細工が」
ナージャが、また聞いた。
「好き、かどうか」
言葉を探しながら、サキはジャケットの袖を見た。
「こういうものを作った人のことを、考えてしまう。誰かが、時間をかけて針を動かした。その時間の話を、聞きたくなる」
「考古学者らしい答えだ」
「そう?」
「死んだものから、人の体温を拾うのが好きなんだろう」
サキは、少し驚いた。それほど正確に言い当てられたことが、意外だった。
「そうかもしれない」
「似てる」
ナージャが、自分の首のネックレスを、指でつまんだ。
「俺も、荷を運ぶ時に、それが誰の荷なのかを考える。依頼人の顔より、荷物の重さや、包み方から、その人間を想像するのが好きだった」
「それは、少し違う気がする」
「違うか」
「あなたは生きてる人間から想像する。私は死んでる人間から想像する」
ナージャが、しばらく考えた。「そうだな」と、素直に言った。
しばらく、二人とも黙った。光の柱が、床の埃をゆっくり動いていた。
ナージャが、ショーケースの中から、小さなものを拾い上げた。指輪だった。金属の台座に、赤い石が一つついている。ルビーかガーネットか、今の光量ではわからない。
「これを」
彼女が、サキの左手を取った。
唐突だったが、サキは引かなかった。
「お前の手に合うかどうか、試したい」
中指に、はめた。少しだけ緩かったが、落ちるほどではなかった。
ナージャが、その指輪を灯りの方へかざした。石が、深い赤で光った。
「似合う」
「また断言する」
「似合うものは似合う」
サキは、自分の指にはめられた指輪を、しばらく見た。こういうものを身につけたことが、ほとんどなかった。F.C.E.U.の任務中、装飾品は邪魔だ。アークでも、誰も持っていなかった。旅の間は、なおさらだった。
でも、今、これが指にある。
「ちなみに」
ナージャが、手を放しながら言った。
「あの子は、そういうもの、好きだったか」
「あの子?」
「エレナ」
サキは、少し考えた。エレナが装飾品を身につけた姿を、見たことがあったか。記憶を探すと、ない。制服と、端末と、白衣の印象しかない。
「興味なさそうだった」
「そうか」
「あなたのユカは?」
「好きだった」
ナージャが、ショーケースの中に視線を落とした。
「出かける前に、いつも鏡の前で時間をかけてた。俺はそれを待つのが好きだった」
待つのが好きだった、という言い方が、胸のどこかに引っかかった。
「会えるといいね」
サキは、言った。
「さあな」
ナージャが、立ち上がった。
「あったらあったで、どうすればいいかわからん。別れた時、うまいことを言えなかった。今でも思いつかない」
「うまいことを言う必要は、ないんじゃないかな」
「お前はそういうことを、さらりと言う」
「そう?」
「エレナに同じことが言えるか」
それは、少し痛かった。
答えの代わりに、サキは左手の指輪を外した。台座に戻そうとして——やめた。
握ったまま、ジャケットのポケットに入れた。
「それを持っていくのか」
「ダメ?」
「俺が止める理由はない。ここには、もう誰もいない」
ナージャが、ネックレスを外して、ショーケースに戻した。それだけ律儀だった。
外へ出ると、日が傾いて、街が橙色に染まっていた。廃墟の東京が、この光の中では、すこしだけ違う顔をした。壊れた建物ではなく、ただ古びた街のように、一瞬、見えた。
「おしゃれって」
歩きながら、サキは言った。
「なんで、したくなるんだろう」
「誰かに見せたいからだろう」
「見せたい相手がいない時は?」
ナージャが、少し間を置いた。
「いる時のことを、思い出すためだ」
サキは、ポケットの中の指輪を指先で触れた。
東京の空が、橙から紫に変わりはじめていた。




