帰還点
ビルが、空を区切っていた。ただ、空を区切るだけだった。
窓は割れ、外壁は黒く変色し、どれが火災の跡でどれが経年劣化なのか、もう判別がつかない。
あの頃——F.C.E.U.の任務でこの街を踏んだ時、まだいくつかの建物には電気が通っていた。
発電機の音が、どこかから聞こえた。
しかし、今聞こえるのは風の音だけだった。
「広いな」
ナージャが、ビルの谷間を見上げながら言った。
感嘆でも、恐怖でもない。ただの観察だった。
サキは、記憶の中の東京と、今目の前にある東京を重ねようとして、うまくいかなかった。
輪郭だけが同じで、中身が別の街だった。スクランブル交差点の信号機が、針金一本で傾いたまま止まっている。
道の真ん中に、H-住民が一人、立っていた。
立っている、というより、そこに置かれている、という感じだった。足が根を張ったように動かず、瞳は高いビルの窓に向いていた。何かを待っているような、何かを送り出しているような——判断がつかない立ち方だった。
サキは、迂回せずに近づいた。
声をかけた。反応がない。肩に手を置いた。肩が、かすかに震えた。それだけだった。
耳を澄ませると、唇の動きに気づく。声になっていない音が、規則的に刻まれていた。三、六、九。ここでも、同じ数列だった。
「連れて行けるか」
「場所があれば」
それが今の問題だった、とサキは思った。
F.C.E.U.時代に使っていた中継地点は、渋谷の地下だった。発電設備と通信機器を備えた、表からは見えない区画——今も生きているかどうかは、行ってみるまでわからない。ただ、あの場所の設計は頑丈だった。地上が崩れても、地下は残る想定で作られていた。
「着いてきて」
ナージャに言い、サキは歩き出した。
渋谷への道は、記憶より細かった。崩れたコンクリートと、育ちすぎた植物が、かつての車道を半分塞いでいた。けれど、方角はわかった。ビルの配置が、地図代わりになる。F.C.E.U.の任務で地図を持たずに歩くことが多かったのは、こういう時のためだったかもしれない。
地下への入り口は、駅の構内だった。
シャッターが下りていたが、鍵は記憶にある番号で開いた。変えていなかったのか、変える人間がいなくなったのか——どちらにせよ、開いたことに変わりはない。
地下に降りると、空気が変わった。
埃っぽく、冷たく、けれど、外の荒廃とは別の時間が流れているような静けさがあった。非常灯が、まだ弱く灯っていた。蓄電池がまだ生きている。
通信機器のコンソールを前に、サキは腰を下ろした。電源を入れると、液晶が薄く光る。ネットワークには繋がらない。当然だった。ただ、ローカルの記録は残っていた。
「何がある」
ナージャが、後ろから覗き込んだ。
「当時の調査記録。避難可能な区画のリスト、物資の残存量の推計、H-住民の分布データ——ただし、数年前の情報だ」
「今とは違う」
「でも、骨格は使える」
スクロールしながら、サキは頭の中で重ねていた。あの時作ったデータと、道中で見てきたもの。廃墟の中で手入れを続けている鳥居。街路に立ち尽くすH-住民たちのリズム。ヴァディムが語った保護の限界。
一人では、何もできない。
それはわかっていた。わかっていて、それでも、できることの輪郭を探していた。この国に残っている人間とH-住民を、誰かが把握していなければならない。把握していなければ、助けようとする人間が現れても、どこへ向かえばいいかがわからない。
地図が要る、とサキは思った。文字通りの地図ではなく——今ここにいる人間の、生存の地図が。
「面倒なことを考えてる顔だ」
ナージャが、壁に背を預けながら言った。
「一人でやろうとしてるだろう」
「――一人じゃ無理だってわかってる」
「それならいい」
ナージャが、腕を組んだ。
「ユカを探すついでに、手を貸してやれることがあれば、貸す。ついでの範囲でいいなら」
「十分」
サキは、コンソールから古いデータを書き出しはじめた。
東京に、まだ灯りはあった。ビルの窓ではない。地下の非常灯、路地の焚き火、廃屋の隙間から漏れる蝋燭の光——見ようとしなければ見えない種類の灯りが、この街のあちこちに、まだ息をしていた。




