鳥居
陸の匂いが、海の向こうから届いた時、サキはすぐにそれとわかった。
この匂いを、知っていた。湿って甘く、腐葉土と潮が入り混じった、大陸のどこともちがう匂い。F.C.E.U.の任務で初めてこの国に降り立ったとき、タラップの上で一瞬だけ足を止めた。その感覚が、ここへ来て戻ってきた。
あの頃は、迷っている暇がなかった。任務があり、期限があり、報告書があった。名古屋では記録媒体の回収、東京では接触対象の確保——どちらも、この国の土を踏んだという実感より先に終わっていた。
霧の中から、岸壁の輪郭が浮かびあがった。
廃港だった。けれど、見覚えのある廃れ方ではなかった。あの頃まだ辛うじて機能していた港の設備が、この数年で一気に朽ちたらしい。
クレーンが傾いたまま錆びている。防波堤の上に、鳥が密集して止まっていた。大沈黙以降、鳥はどこでも増えた。人間が減った世界は、鳥にとって住みやすいらしかった。
タラップを降りながら、後ろで足音がした。
一人分ではなかった。
「なんでついてくるの」
振り返らずに言った。
「姫様をこんな場所に一人で降ろしたら寝覚めが悪い」
ナージャの声が、すぐ後ろにあった。
「姫様?」
「嫌いか」
「嫌いというか」
振り返ると、ナージャが短銃を腰に、荷物を一つだけ肩にかけて、涼しい顔で立っていた。その後ろで、ベルナルドが困ったような顔をして船の方を見ている。
「船は?」
「ベルナルドに任せた。帰る場所がなくなるかもしれないが、それはその時だ」
「船長がいなくていいの」
「たまには降りたい」
それだけ言って、ナージャはサキを追い越して岸壁を歩きはじめた。ついてこいとも待てとも言わない。気が向いたからついてきた、それ以上でも以下でもない、という背中だった。
サキは一拍だけ置いて、その背中を追った。
港から続く道は、アスファルトが割れて、隙間から草が育っていた。F.C.E.U.時代に踏んだ道も、こういう具合だったか——いや、あの頃はまだ、踏める道が残っていた。
それがここまで崩れている。
たった数年で、人のいない土地がどこまで戻っていくのか、見せつけられているような気分だった。
道の脇に、鳥居が立っていた。
赤い塗料が剥げて、木の地が出ている。けれど、形は崩れていなかった。
苔が根元を這っているが、傾いてもいない。
任務の移動中にも、何度かこういう構造物を車窓から見た記憶があった。
その時は、調査対象の建築様式として頭の隅に分類しただけだった。
立ち止まって見上げたのは、今日が初めてだった。
ナージャが、足を止めて、鳥居を見上げた。
「何だ、これは」
「神社の門。神様がいる場所への入り口、みたいなもの」
「神様は、今もいるのか」
参道は草に埋もれていた。その先の社の輪郭だけが、霧の中に静かに立っていた。根元の苔の具合、石畳の隙間から伸びた草の高さ——誰かが最近、手を入れた形跡があった。F.C.E.U.の調査員として培った目が、勝手にそれを読み取っていた。
「生き残りがいる」
サキは、社の方角を見たまま言った。
「この辺りに、まだ人がいる」
ナージャが、短く「ほう」と鼻を鳴らした。
「姫様の目は使えるな」
「姫様はやめて」
「なぜ。お前は確かに、俺たちとは違う旅をしてる」
サキは、返す言葉を探して、見つからなかった。F.C.E.U.の任務で踏んだ土と、今ここで踏んでいる土が、同じ国のものだとは、なかなか思えなかった。あの頃は、報告書のための土だった。
今は——何のための土なのか、まだわからない。ただ、自分の足で選んで踏んでいる、ということだけは確かだった。
ナージャが、また歩きはじめた。
サキは、もう一度だけ鳥居を見た。
次に東京へ行く時、あの頃とは別の目で見るのだろう、と思った。
任務でもなく、指示でもなく。




