海図の余白
夜が深くなると、海はただ黒いだけになった。
星が多かった。この海域では光を消費する人間がほとんどいないのだろう、星の粒が、目に痛いくらい鮮明だった。
サキは甲板の端に腰を下ろして、それを仰いでいた。眠れない体になったのがいつからかは、正確にはわからない。疲れない体と、眠れない体は、たぶん同じ変化の、別の面だった。
隣に、煙草の匂いが来た。
ナージャが、縄にもたれて煙草に火をつけた。こちらを見るでもなく、海を見るでもなく、ただ煙を吐いている。
「昨日は助かった」
「お礼ならいい」
「礼を言ったら、困るか」
「慣れていない」
短い沈黙が落ちた。悪くない沈黙だった。
ナージャが、二口目の煙を細く吐いてから、唐突に言った。
「北朝鮮を迂回した」
サキは、星から視線を外した。
「あの海域は通らない。うちの船のルールだ」
「何かあるの」
「何かある、というより」
ナージャが、煙草を指に挟んだまま、少し考えるような間を置いた。
こういう間を置く時、彼女はいつも、言葉を選ぶのではなく、捨てている。余分なものを落として、芯だけを残す。
「音がしない」
「音?」
「電波だ。大沈黙の前後を通じて、あの半島からは何らかの電波が出ていた。妨害でも、傍受でも、プロパガンダでも——とにかく、あそこは常に何かを発信していた」
煙が、夜風に流れていく。
「三年前から、何も出ていない」
サキは、その「何も」の重さを、しばらく測った。大沈黙によって文明が止まった地域は、世界中にある。電波が止まること自体は、珍しくない。ただ——最後まで発信し続けていた場所が、急に止まるというのは、別の話だった。
「中に入った人間は」
「戻ってきていない。うちの仲間が一人、港に近づいただけで船ごと消えた」
消えた、という言葉を、ナージャは何の修飾もなく使った。誇張でも警告でもなく、ただの事実として。
「H-住民も?」
「それが、おかしい」
彼女が、初めてサキの方を見た。
「周辺海域で、H-住民の漂流者を拾ったことが、何度かある。北から流れてきた連中だ。あいつらは、ハミングすらしていなかった」
「……無音?」
「ただの、空洞みたいだった」
その言葉が、サキの首筋に冷たいものを走らせた。H-住民のハミング、三・六・九のリズム、東を向く瞳——それらは、空虚ではあっても、何かの信号だった。受信し続けている何かの証拠だった。それが、何もない、というのは。
発信源が近くにあるということなのか。
それとも、発信そのものが止まったということなのか。
「行くつもりはないが、頭に入れておけ」
ナージャが、煙草を踏み消した。
「お前が向かう先の海の、隣にある話だ」
立ち上がり、船長室へ戻っていく背中を、サキはしばらく目で追った。
頭の隅に小さく仕舞い込む。今すぐ答えを出さなくていい情報の引き出し。
アーク時代に、エレナから教わった習慣だった。
すぐに使えない知識ほど、丁寧に畳んでおけ。
星が、また増えた気がした。
サキは、北の方角には目をやらずに、東だけを見た。




