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第七人類絶滅報告書  作者: ななめハンバーグカルパス
第四部 デルタは目を瞑る
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深海の文法

 嵐の匂いは、二時間前からしていた。


 空が黄みがかる前に、すでに海の表面が変わっていた。波が、方向を失っていた。

 風に押されるのではなく、何か別の力に引き寄せられるように、幾つもの向きから中央へ収束してくる。


 おかしい、とサキが思った矢先、ナージャの声が甲板に叫んだ。


「総員、装備しろ!」


 船員たちの動きが、別の速度に切り替わった。そこで初めて、サキは気づいた。

 倉庫から引き出されてくるのは、嵐用の合羽ではなかった。ヘルメットに似た形の頭部防具、前腕を覆う厚い金属板、胸に貼り付けるプレート——どれも、見覚えのある形をしていた。


 F.C.E.U.の放射線遮蔽装備を改造したような、あるいは、それを真似て別に作ったような。縫い目が雑で、刻印のない部品が混じっていた。正規品ではない、とすれば、どこかから流れてきたか、奪ったかだ。


 ベルナルドが、サキに向かってプレートを一枚投げてきた。


「着けろ」


「何に対する防具」


「お前はもういらないかもしれないが、習慣だ」


 受け取って、胸に当てながら、サキは海面を見た。

 収束していた波が止まった。

 凪いだわけではない。波が、まるごと何かに飲まれたように消えた。


 次の瞬間、船底を、巨大な何かが擦った。

 衝撃で、甲板が斜めになった。コンテナが一つ、縛めを失って滑る。ベルナルドが怒鳴る声、ロープが引きちぎれる音、ナージャの短い命令——それらが全部、波の底で聞こえるように遠くなった。


 水面が、盛り上がった。

 比喩ではない。海面そのものが、ドームのように膨らんで、それが弾けた。

 現れたのは、触手ではなかった。ひれでもなかった。薄い膜が幾重にも重なった、半透明の何かだった。


 クラゲに似た形の中心に、明滅する光源がある。三つ、六つ、九つ——区切りのない数だったが、光のリズムが、その数列を思わせた。


「パターン・ゼロに感染した海洋生物だ」


 ナージャが、すぐ隣に立っていた。


「大沈黙以降、海で生き延びたやつらは、陸と違う進化をした」


「倒せる?」


「倒す必要はない。追い払えればいい」


 触手に見えていたものが、船のへりに触れた。金属が、軋んだ。腐食ではない、もっと早い崩壊だった。触れた部分から、鉄が粉になっていく。


 サキは、へりに飛び乗った。


「何をするつもりだ!」


「試してみる」


 飛び込む前に、一つだけ考えた。海水を、体がどう受け取るか。放射線は問題ない。では、これは。

 答えより先に、体が飛んでいた。


 水は、冷たかった。冷たさが体中を包んだ一瞬、全身の何かが警戒して張り詰めるのがわかった。ロゴス・ウイルスが、未知の接触を前に、全力で構えを取っている感触だった。


 膜が、サキを包もうとした。

 皮膚に触れた瞬間、焼けるような熱さが走った。金色の糸が、全身で一斉に浮かんだ。

 膜が、後退した。


 一度ではなかった。二度、三度——触れるたびに、光の何かが、サキの全身を前に怯む。

 完全に理解したわけではなかったが、ウイルスとウイルスが、互いの文法を認識して、拒絶し合っているような感触だった。


 もう一度、全力で体当たりをした。

 膜の中心部の光が、大きく乱れた。次の瞬間、巨大な何かが海中へ沈んでいく気配が、水圧として全身に届いた。


 甲板に引き上げられた。

 腕を引いたのはベルナルドで、その手が、震えていた。


「お前……生きてるか」


「生きてる」


 皮膚の上の金色の模様が、ゆっくりと薄れていく。焼けた感触だけが、少し遅れて来た。

 ナージャが、甲板に立ったまま、サキを見下ろしていた。驚いていなかった。最初から、こうなると知っていたような目だった。


「使えるな」


 たった五文字だったが、それが、この船で最大の賛辞だとわかった。

 空がまた黄みを帯びてきた。

 嵐は、まだ来ていなかった。

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