深海の文法
嵐の匂いは、二時間前からしていた。
空が黄みがかる前に、すでに海の表面が変わっていた。波が、方向を失っていた。
風に押されるのではなく、何か別の力に引き寄せられるように、幾つもの向きから中央へ収束してくる。
おかしい、とサキが思った矢先、ナージャの声が甲板に叫んだ。
「総員、装備しろ!」
船員たちの動きが、別の速度に切り替わった。そこで初めて、サキは気づいた。
倉庫から引き出されてくるのは、嵐用の合羽ではなかった。ヘルメットに似た形の頭部防具、前腕を覆う厚い金属板、胸に貼り付けるプレート——どれも、見覚えのある形をしていた。
F.C.E.U.の放射線遮蔽装備を改造したような、あるいは、それを真似て別に作ったような。縫い目が雑で、刻印のない部品が混じっていた。正規品ではない、とすれば、どこかから流れてきたか、奪ったかだ。
ベルナルドが、サキに向かってプレートを一枚投げてきた。
「着けろ」
「何に対する防具」
「お前はもういらないかもしれないが、習慣だ」
受け取って、胸に当てながら、サキは海面を見た。
収束していた波が止まった。
凪いだわけではない。波が、まるごと何かに飲まれたように消えた。
次の瞬間、船底を、巨大な何かが擦った。
衝撃で、甲板が斜めになった。コンテナが一つ、縛めを失って滑る。ベルナルドが怒鳴る声、ロープが引きちぎれる音、ナージャの短い命令——それらが全部、波の底で聞こえるように遠くなった。
水面が、盛り上がった。
比喩ではない。海面そのものが、ドームのように膨らんで、それが弾けた。
現れたのは、触手ではなかった。ひれでもなかった。薄い膜が幾重にも重なった、半透明の何かだった。
クラゲに似た形の中心に、明滅する光源がある。三つ、六つ、九つ——区切りのない数だったが、光のリズムが、その数列を思わせた。
「パターン・ゼロに感染した海洋生物だ」
ナージャが、すぐ隣に立っていた。
「大沈黙以降、海で生き延びたやつらは、陸と違う進化をした」
「倒せる?」
「倒す必要はない。追い払えればいい」
触手に見えていたものが、船のへりに触れた。金属が、軋んだ。腐食ではない、もっと早い崩壊だった。触れた部分から、鉄が粉になっていく。
サキは、へりに飛び乗った。
「何をするつもりだ!」
「試してみる」
飛び込む前に、一つだけ考えた。海水を、体がどう受け取るか。放射線は問題ない。では、これは。
答えより先に、体が飛んでいた。
水は、冷たかった。冷たさが体中を包んだ一瞬、全身の何かが警戒して張り詰めるのがわかった。ロゴス・ウイルスが、未知の接触を前に、全力で構えを取っている感触だった。
膜が、サキを包もうとした。
皮膚に触れた瞬間、焼けるような熱さが走った。金色の糸が、全身で一斉に浮かんだ。
膜が、後退した。
一度ではなかった。二度、三度——触れるたびに、光の何かが、サキの全身を前に怯む。
完全に理解したわけではなかったが、ウイルスとウイルスが、互いの文法を認識して、拒絶し合っているような感触だった。
もう一度、全力で体当たりをした。
膜の中心部の光が、大きく乱れた。次の瞬間、巨大な何かが海中へ沈んでいく気配が、水圧として全身に届いた。
甲板に引き上げられた。
腕を引いたのはベルナルドで、その手が、震えていた。
「お前……生きてるか」
「生きてる」
皮膚の上の金色の模様が、ゆっくりと薄れていく。焼けた感触だけが、少し遅れて来た。
ナージャが、甲板に立ったまま、サキを見下ろしていた。驚いていなかった。最初から、こうなると知っていたような目だった。
「使えるな」
たった五文字だったが、それが、この船で最大の賛辞だとわかった。
空がまた黄みを帯びてきた。
嵐は、まだ来ていなかった。




