甲板での仕事
最初の指示は、ロープを巻くことだった。
それだけ聞いて、サキはロープを手に取った。どの程度の強さで、どの巻き方で、という説明はなかった。そういう船らしかった。できなければ使わない、できるなら黙って使う——ナージャの采配には、無駄な言葉がどこにも混じっていなかった。
巻き方は、三種類覚えた。
二時間もあれば、どれが何に向いているかも体が覚えた。
「次、索具の点検だ」
「どこから」
「どこからでもいい。全部やれ」
全部、というのが、どれくらいの量なのか、その時点では見当がつかなかった。見当がつくより先に、体が動いていた。
疲れが、来なかった。
正確には——疲れの手前まで来て、そこで止まる感覚があった。熱したガラスが、割れる寸前で固まるような。限界の輪郭だけが残って、その内側には入ってこない。
船員たちは、最初のうち、遠巻きにサキを見ていた。甲板で傷が塞がるのを見た連中だ、当然かもしれなかった。けれど、仕事ぶりを見るうちに、それが変わっていく気配があった。驚きが、少しずつ、別の何かに変質していく。信頼というほど温かくはないが、値踏みの目ではもうない。
「お前、重いものを持つのが好きか」
船員の一人が、索具の隣で作業しながら、唐突に言った。ベルナルドという名の、腕に錨の刺青を持つ男だった。
「なんで」
「重いものを運ぶとき、お前の顔が一番、普通だ」
普通、という言葉が、少し可笑しかった。でも、否定はできなかった。百キロ近い荷を担いでも、体に感想がないのは、事実だった。感想がないということは——たしかに、一番普通に近いのかもしれない。
「そうかもしれない」
ベルナルドが、短く笑って、また作業に戻った。それだけの会話だったが、甲板の空気が、少しだけ変わった気がした。
日が傾いた頃、ナージャが甲板に出てきた。
何も言わずに、サキの仕事を見て回る。点検した索具、巻いたロープ、整えたタラップ。一つ一つを、指で触れながら確かめていくその仕草は、信頼しているのか、まだ疑っているのか、どちらとも取れた。
たぶん、どちらでもあるのだろう、とサキは思った。
「不満はある?」
ナージャが、海の方を見たまま言った。
「ない」
「嘘をつくな」
「……手が余る」
正直に言うと、ナージャが初めて、サキの方を見た。
「それだけ動けて、手が余るか」
「動けるのと、動かす理由があるのは、別だと思う」
ナージャは、しばらく黙っていた。
海風が、二人の間を通り過ぎていく。
「明後日には、海流が変わる」
彼女が、視線を水平線へ戻した。
「その頃には、お前の理由も変わるかもしれない」
意味を問う前に、ナージャは踵を返していた。
サキは、海を見た。
水平線の向こうが、今日は少しだけ、昨日より近く見えた。
気のせいかもしれない。それでも、少しだけ、足を前に踏み出す気になった。




