さよならの言い方
朝の港は、昨日より人が多かった。
荷の積み替えをする男たちの怒鳴り声、油の焦げる匂い、潮が引いた後の湿った石畳——それらをまとめて、サキの鼻は「出発の朝」として記憶しようとしていた。ただ、完全に記憶すると決めたわけではない。目と耳が、勝手に欲張った。
ヴァディムは、船が見える岸壁のギリギリまで来ていた。それ以上は来ない、とでもいうように、つま先がそこでぴたりと揃っていた。
「世話になった」
サキは、先に言った。言ってしまえば、後は短くて済む。そう思っていた。
「世話した覚えはない」
「ウラジオストクまで連れてきてもらって?」
「お前が勝手についてきた」
「あんたが先に歩いた」
ヴァディムが、鼻を鳴らした。この人の笑い方は、最後まで、これだけだった。
荷を担いだ船員が、二人の脇を通り抜けていく。出航まで、もうそんなに時間はないはずだった。わかっていた。わかっていたから、余計に何かを言わなければという気になって、余計に何も出てこなかった。
「あのさ」
思ったより、声が小さかった。
「エレナと、もし会うことがあったら」
「会わないだろう」
「会わないだろうけど」
喉の奥が、少しだけ詰まった。つまらないことで詰まるな、と自分に言い聞かせる。
「よろしく言っといて」
ヴァディムの眉が、片方だけ上がった。
「よろしく、って何を」
「わかんない。でも、よろしく」
我ながら意味がわからない、と思った。けれど、それ以外の言葉が見つからなかった。
エレナによろしく、という言葉は、たぶん、エレナへ向けた言葉ではなかった。自分の中の何かへ向けた言葉だった。それが何かは、まだ名前がつかない。
ヴァディムは、しばらく黙っていた。
「伝えてやれない」
「知ってる」
「けど」
低い声が、一拍だけ止まった。
「お前が笑う顔を、そいつが見たなら、よろしくどころじゃなかっただろうな」
サキは、返せなかった。
返せないまま、口の端だけ、少し持ち上げた。笑っているつもりだったが、うまくできていたかどうかは、自分ではわからなかった。
「行け」
ヴァディムが、先に目をそらした。
サキは、タラップに足をかけた。振り返らないと決めていた。決めていたのに、甲板に乗り移る直前、視線だけを横に流した。
岸壁に大きな背中が、まだあった。
潮の匂いが、また強くなった。目が、少しだけ熱を持った気がしたが、それは朝の風のせいだということにした。
船が、低く唸り始める。
それでいい、とサキは思った。
寂しいのは、知っている人がいた、ということだ。それだけだ。




