船長の夜
呼ばれたのは、日が傾いた頃だった。
船員の一人が、ただ「ナージャが呼んでいる」とだけ言った。それ以上の説明はなかった。この船では、それが普通らしかった。
甲板の奥、積み荷に半分隠れた小屋のような船長室へ入ると、ナージャは地図を広げたまま背を向けていた。入ってきたことには気づいているはずだが、振り返らない。
値踏みの仕方が、独特だった。背中で相手を測る種類の人間なのかもしれない、とサキは思った。
「座れ」
椅子を引いて、座った。テーブルの上には、コップが二つ。茶色い液体が、低い灯りを受けて揺れている。何かを試すつもりなのか、それともただの習慣なのか、この女の行動はいつも判断が少し遅れる。
ナージャが、ようやく振り返った。
「お前の腕――」
その一言で、サキは合点した。だから呼んだのだ。
「甲板で、昨日、傷が治るところを見た連中がいる」
ナージャは、自分のコップを手に取った。飲む前に、サキのコップをちらりと見る。勧めているのか、試しているのか、どちらとも取れる視線だった。
「怖がってる?」
「怖がってどうする」
即答だった。その速さが、意外だったのか、ナージャの目尻が、わずかに緩んだ。
「日本まで行って、どうする」
「まだ、わからない」
「正直なやつだ」
彼女が、コップを傾けた。サキは、自分のコップには手をつけなかった。のどの渇きは感じない。それは、もう当たり前になっていた。
「一つ、聞いていいか」
ナージャが、テーブルに肘をついた。
「お前を追いかけてる女がいるだろう」
サキの指先が、わずかに冷えた。文明復興庁のことかと思った。が、ナージャの次の言葉は、そちらではなかった。
「ヴァディムから聞いた。アークで出会った女のこと」
「……話したのね、あの人」
「あいつは、酒が入ると止まらない」
ナージャは、視線を外さないまま言った。
「その女を、置いてきた」
問いではなかった。確認だった。
置いてきた。その言葉の重さを、サキはしばらく舌の上で転がした。違う、とは言えなかった。でも、置いてきた、というのも、少し違う気がした。
「私が出ていった。彼女は止めなかった」
「それは、止めなかったのか。止められなかったのか」
甲板の外で、波の音がした。ナージャは答えを待たなかった。答えを求めているわけでもないのだろう、とサキは思った。ただ、この女は、相手の輪郭を言葉で彫り出すことに慣れているだけだ。
「俺も、そういう女がいた」
低く、独り言のような声だった。
「追いかけることも、引き止めることも、どっちもしなかった。正しかったのかは、今でもわからない」
灯りが、風で少し揺れた。ナージャの横顔が、一瞬だけ、サキの知らない表情をした。
「明日、出る」
椅子を引いて、立ち上がる。
「波は穏やかだ。それだけは教えてやれる」
サキも、立ち上がった。
扉へ向かいながら、ふと振り返る。テーブルの上、手つかずのコップが二つ、並んでいた。




