屋台
出航までの三日、ヴァディムは「休め」とだけ言って、市場の方へ顎をしゃくった。
理由を聞く前に、もう歩き出していた。
雑多な屋台が、桟橋から港町の中心まで、ひしめくように並んでいた。干物の匂い、油の匂い、誰かが弦楽器を爪弾く音——基底言語の社会では、決して許されない種類の音だった。
この街には、文明復興庁の手が、十分には届いていないのかもしれない。
「あれ、何?」
サキは、木彫りの動物が並んだ屋台に、思わず足を止めた。
小さな鹿のような彫刻が、棚いっぱいに並んでいる。
一つを手に取ると、角の部分に細かい渦巻き模様が彫り込まれていた。
「データ・スタッグだ。北の連中がよく彫る」
ヴァディムが、横から覗き込んだ。
「縁起物らしい。記憶を宿す角、なんだとさ」
サキは、その彫刻を灯りにかざした。木目の渦が光を受けて、思いがけず美しく揺れた。
「かわいい」
口からこぼれた言葉に、自分でも一拍遅れて気づいた。声が、いつもより高い。
弦楽器の音が、また風に乗って届く。露店の主人が、何かの冗談を言い、近くにいた子供が笑った。釣られるように、サキの口元も緩んだ。
声を立てて、笑った。
久しく忘れていた感触だった。
ヴァディムが、こちらを見ていた。何か言いかけて、やめる仕草。
サキが視線を向けると、彼は慌てたように、屋台の方へ顔を戻した。
「……お前、笑うと」
言葉を探すように、間が空いた。
「ずいぶん、違うな」
「違う?」
「いつも、無理に背伸びしてるみたいだった。今のが、たぶん、本当のお前なんだろう」
サキは、彫刻を握ったまま、何も言えなかった。
「大人っぽく振る舞わなくても、いいんだぞ」
ヴァディムが、ぶっきらぼうに付け加えた。
「お前は、もう十分、戦ってきた」
その言葉が、なぜか、すぐには自分のものとして受け止められなかった。代わりに、別の声が記憶の奥で重なった。
——感情を律する必要はない。それは、欠陥ではない。
エレナが、一度だけ、端末越しに送ってきた言葉だった。
意味はまるで違うはずなのに、不器用な優しさの形だけが、よく似ていた。
サキは、彫刻を胸に抱えるようにして、屋台から離れた。
「買わないのか」
「もう、持ってる」
懐に、最初から仕舞ってあった硬貨を、サキは渡した。代わりに、鹿の彫刻を受け取る。
二人は、しばらく無言で歩いた。賑やかな雑踏の中、その沈黙だけが、やけに静かだった。
サキは、隣を歩くヴァディムの横顔を、そっと見た。
あと二日。
数えてしまった自分に、気づかないふりをした。




