メビウスの桟橋
街に足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
これまで通ってきたどの廃墟とも違う。声、声、声。怒鳴り合う値段交渉、子供の泣き声、何語かもわからない歌——人の出す音が、ここでは生きるための道具として、ひしめき合っていた。
サキは、無意識に肩を縮めていた。久しく忘れていた感覚だった。人混みは、Hの群れより、ずっと予測がつかない。
ヴァディムは、慣れた足取りで雑踏を抜けていく。
露店の隙間、錆びたコンテナの隙間——彼にとっては、何度も歩いた道なのだろう。
桟橋の手前で、二人組の男が行く手を塞いだ。
「メビウスに用か」
「ナージャに会いたい」
ヴァディムが、短く答える。
男たちは、しばらくサキを値踏みするように見てから、道を空けた。
桟橋の先、錆だらけの貨物船の前に、痩せた女が立っていた。風になびく髪を片手で押さえながら、近づく二人を眺めている。値踏みする目つきは、さっきの男たちより、ずっと鋭かった。
「ヴァディム。生きてたか」
「お前ほどしぶとくはない」
ナージャの視線が、サキへ移る。
値踏みの時間が、心なしか長かった。
「その顔」
彼女が、ぽつりと言った。
「見覚えがある」
サキの背筋に、冷たいものが走った。
「市場の壁に貼ってある紙。文明復興庁の手配書。顔だけは、わりと鮮明だった」
ヴァディムの肩が、わずかに強張る。
「金になる」
ナージャが笑った。表情のない笑い方だった。
「お前を突き出せば、たぶん、船の修理代くらいにはなる」
「やらない方がいい」
サキは、感情を込めずに言った。それが、かえって効いたのかナージャの片眉が上がる。
「理由は」
「あんたの船員、何人か怪我してる」
サキは、甲板の方を見やった。包帯を巻いた腕、足を引きずる男。
「数が足りないんでしょう。海の向こうまで」
ナージャは、しばらく黙ってサキを見つめた。
「戦えるのか」
「F.C.E.U.仕込み」
風が、桟橋の鎖を鳴らした。
ナージャは、煙草に似た何かに火をつけ、一口吸ってから、煙を吐いた。
「労働で払え。航海中、何が起きても、お前が前に出ろ」
彼女が、貨物船を親指で示した。
「出航は三日後だ。それまでに、態度を見て決める」
「決まりだ」
ヴァディムが、先に頷いた。
サキは、船体を見上げた。
錆びた鉄の壁に、自分の進む先がまだ何も描かれていないことに気づく。
三日後。
そこから先は、海の上だ。




