潮の匂い
森が、針葉樹から白樺に変わった頃には、すでに息を吐くたび白い煙が立つようになっていた。
靴底は、もう二度貼り直していた。最初の街で拾った接着剤の残りも、底をついている。
幾つかの廃村を抜けた。どこも同じだった。崩れた壁、錆びた看板、そして時折、虚ろな瞳で立ち尽くすH-住民たちの影。すれ違うたび、サキは耳を澄ませた。三、六、九。同じ数列が、別の街でも、別の声で、繰り返されていた。
ヴァディムは、何も言わなかった。ただ、その度に、足を止める時間が少しずつ長くなっていった。
ある夜、星が異常なほど鮮明に見えた。
ヴァディムが「もうすぐだ」と呟いたきり、何も続けなかった。
山脈を越え、針葉樹の森を再び抜けた朝——
風の匂いが、変わった。
土と錆の匂いの奥に、塩の匂いが混じっている。
サキは、足を速めた。疲労という感覚は、もう半分も残っていなかったが、それでも、この匂いを嗅いだ瞬間だけは、何かが急いていた。
丘を登りきったところで、視界が開けた。
灰色の海が、地平線まで広がっていた。波が、規則正しい音を立てて岸を叩いている。今のところ、その音には、文字も波紋も読み取れなかった。ただ、それが本当に「何もない」ことを意味するのか、サキにはまだ判断がつかなかった。
港の方角には、煙が何本も立ち上っていた。建物の輪郭が密集している。これまで通ってきたどの廃墟よりも、人の気配が濃かった。怒鳴り声、金属を打つ音、何かのエンジン音——久しく聞いていなかった、生きている街の雑音。
「あれが、ウラジオストクだ」
ヴァディムが、目を細めて港を見下ろした。
「メビウスの連中は、たぶんあの桟橋のどれかにいる」
サキは、海を見つめたまま、しばらく動けなかった。
チェルノブイリを出てから、初めて見る本物の水平線だった。
「行こう」
声に出してから、自分がそう言ったことに、少し驚いた。




