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ケミカルクラフト〜魔法の世界で化学実験〜  作者: りょうが
第1章 魔法の街編
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1話 スライムにはクエン酸を!

──俺は金剛大也。理科大に通う、至って普通の理系男子だ。

 セミの鳴き声がどこか耳障りに響く、夏の始まりの夕まずめ時。補習が長引いたせいで、今日の帰りはすっかり遅くなってしまった。

 少しでも早く帰ろうと、人目のつかない近道の路地裏に足を踏み入れたその瞬間、まるで仕組まれたかのように濃い霧が四方八方を覆い尽くした。


「っ……なんだこれ」


霧にしてはおかしい。風もないのに、数秒で視界が潰れるほど濃くなるものなのか?

 振り返ろうとした時にはすでに視界は真っ白で、感覚と記憶を頼りに引き返そうとした直後、俺はまるで空間そのものに拒絶されるように、その場で意識を失った。

 *・*・*・*・*・*・*・*・*・*・

 青白い閃光が走る。

 その瞬間、見慣れた街の建物も、深い森の木々も、すべての物質が分子レベルでねじ曲がり、グチャグチャに押し潰されていく。

 逃げ惑う人々の悲鳴は鉛のように重い爆音にかき消され、世界があっけなく崩壊し尽くしていく――。

 「――ダイヤ! ダイヤッ!」

 俺の名前を呼ぶ、見知らぬ少女の泣き叫ぶ声。凄惨な光景をただ呆然と立ち尽くして眺める俺の前に、突如として禍々しい一頭のドラゴンが立ち塞がった。

 少女の悲鳴も虚しく、ドラゴンは無慈悲に、俺めがけて強烈な光線を放ち――!

「はっ……!」

 

 跳ね起きるように、俺は現実へと引き戻された。

 荒い息を整えながら、冷や汗の滲む額を拭う。

 

「あれは……いったい、なんだったんだ……?」

 

 夢にしてはやけに鮮烈だった。肌を焼き払うような熱や、少女の泣き声の残響が、まだ生々しく脳裏にこびりついて離れない。

 息を整えながら周囲を見渡して、俺は自分の目を疑った。

 さっきまでアスファルトの路地裏にいたはずなのに、目の前には見たこともないほど巨木がそびえ立ち、未知の草木がうざったいほど生い茂る深い森が広がっていたのだから。


「──いや、おかしいだろ! どこだよ、ここは?」


 見知らぬ森を恐る恐る歩き出すと、ぐにゃりと足元の草木を踏みつける、嫌な感触が伝わってきた。

 視線を向ければそこには、透明に透き通ったゼリー状の不定形生物――ゲームで何度も見たお馴染みの魔物、スライムが這い寄ってきていた。


「うわぁっ、ごめん! ……って、なんでスライム?」


 現実逃避したい衝動に駆られながらも、それがまぎれもない事実であることを突きつけられる。

 ――これ、完全に異世界転移ってやつだよな。


 思考の端でそんな絶望的な事実を認めかけた矢先、スライムの表面がぬるりと光り、鼻を突くような酸っぱい臭いが鼻腔をかすめた。這った跡を見ると、触れた草の表面がドロドロになり、葉脈だけを残して溶けていた。

 ――やばい、あいつ、溶解系の魔物だろ。まともにぶつかったら一巻の終わりだ。


 じりじりと後ずさる俺の足が、地面を這う複雑な木の根に引っかかった。バランスを崩して尻餅をつき、ハッと顔を上げる。スライムは粘着質な足音を響かせながら間合いを詰めてくる。

 退路を塞がれた絶望感に心臓が跳ね上がるが、そこでふと、俺の理性が冷や水を浴びせたように現実的な思考を取り戻した。

 ――武器がないなら、頭を使え。

咄嗟に肩に背負ったリュックの紐を掴み、俺は荒い息を殺しながらその中に手を突っ込んだ。

 スマホ、モバイルバッテリー、空のビーカーに試験管そして、タブレット……確かレモン味だったよな。夏場の暑さ対策として放り込んでいた、クエン酸がみっちり詰まった塩分補給用の――。


「その弾力……高分子ゲルみたいな構造か? だったら――」


 大袋から数粒のタブレットを取り出して強く握りしめた。


「酸性に傾けて、架橋平衡を崩す。網目構造さえ壊せれば、その身体は維持できないはずだ!」


もちろん、こいつが地球の高分子ゲルと同じ性質を持っている保証なんてない。

外せば終わり。仮説が間違っていても終わり。


「……上等だ。実験ってのは、やってみなきゃ分からないだろ」


 俺は、這いずり迫るスライムめがけ、手のひらのタブレットを思い切り投げつけた――!

直撃した瞬間、スライムの身体はジュッと音を立てて激しく泡立ち、弾力を失ってただのサラサラとした液状に溶けていく。


「──え!?マジで効いた……!?本当にゲルに近い構造なのか……!」


 あんなに不気味にうねっていたゼリー状の魔物はみるみるうちに形を崩し、跡形もなく消え去るかと思いきや――後に残ったのは、ぷるぷると形を保った小さなゼリー状の塊がぽつんと転がっているだけだった。


「……って、マジでドロップしやがった」


 俺はペタリと地面に手をついたまま呆然と呟き、恐る恐るその塊に手を伸ばし、拾い上げる。

 スライムのドロップ品を試験管に入れ、ポケットにしまった。俺は鬱蒼とした木々の間を慎重に歩した。先ほどの戦闘でアドレナリンが出ていたせいか、静けさを取り戻した森の冷気がやけに肌に染みる。

 ――スマホはもちろん圏外。助けを呼べるわけでもなし、当面はこの森をどうにかするしかないか。

 思考を巡らせながら足を進めていた、その時だった。

 背後の物陰から、カサリと硬質な足音が響く。振り返ろうとした瞬間、首筋にヒヤリとした冷たい金属の感触が突きつけられた。


「――そこまでだ。一歩でも動いてみろ、その場で首を刎ねる」


 背後から飛んできたのは、冷徹に研ぎ澄まされた少女の声だった。息を呑む俺の背中に、容赦ない殺気が浴びせかけられる。


「おい、そこの……。って、なんだその格好は。……違うな、人違いか」


 殺気を孕んでいた声が、わずかに怪訝な響きへと変わる。刃物の刃先がほんの少しだけ浮いた隙を逃さず、俺は両手をゆっくりと掲げた。


「な、何なんだよ! 人違いって、俺はただ通りすがりの……」

「黙れ。軽口を叩けばその喉を潰す。背格好は狙っていた標的に酷似しているが……その奇妙な布きれ、帝国軍の制服でもなさそうだな」


 少女は俺の着古したTシャツとジーンズを値踏みするように一瞥し、やれやれと言いたげに小さく息を吐きながら、ようやく刃物を引っ込めた。


「……身なりも違う、魔力の気配もしない。どうやら本当に、ただの迷い込んだ一般人のようだな」

「一般人って……おい、その物騒なナイフをいきなり突きつけといて何が一般人だ! 首がいくつあっても足りないだろ!」

「文句があるなら、こんな危険な森の奥をうろついている自分を呪うことだな。ここは帝国軍の巡察範囲だ。お前のような不審者がいれば、獣の餌になる前に騎士共が討ち取っていたところだぞ」


 ザッ、と草木を鳴らして少女が後ろに飛び退く。

 ようやく振り返った俺の目に飛び込んできたのは、手入れの行き届いた武装に身を包んだ、凛々しい少女の姿だった。年齢は俺と同じくらいか、下手をすれば年下に見えるが、その纏う雰囲気は素人目にも尋常ではない。


「……で、お前は一体、どこから迷い込んだ? 服の材質も見たことがないが、まさか『転移者』の類か?」

「転移者……? ちょっと待て。あんた、転移者を知ってるのか?」

「知らん。少なくとも、今のお前に説明する義理はない」

「いや、そこ一番重要なところだろ!」

「ふん……。警戒するだけ無駄か。私はシアンだ。この辺りの見回りをしている」


 ようやく名乗った彼女――シアンは疑わしそうに眉をひそめつつも、先ほどスライムから回収したゼリー状の塊が俺のポケットからわずかに覗いているのを見咎めた。


「待て、お前……そのポケットにあるのは、まさか下級スライムの核コアか?」

「あ、これか? さっき襲ってきたから、ちょっとこう……理科の実験っぽく溶かしたら残ったんだけど」

「……たった一人で、無手からスライムを討伐したというのか? 魔法の詠唱も聞こえなかったが……」


 シアンは信じられないものを見るような目で俺を凝視した。


「まあ、武器はなくたって頭を使えばなんとかなってさ」


 不敵に笑ってみせた俺に、シアンはフンと鼻を鳴らした。


「口だけは達者だな。だが、こんな森で日を跨げば、すぐに本物の魔物の餌食になる。……どうしても生き残りたいなら、私から離れるな」


 そう言って背中を向けたシアンの後を追いかけながら、俺はポケットの中の塊の重みを確かめる。

 この世界に放り出された理由も、まだ何も分からない。

 それでも――理科大生としての知恵さえあれば、この異世界を生き抜いてやれない道理はない。


「そういえば、お前。名前は?」


 不意に、前を歩くシアンが振り返った。


「俺か? 金剛大也こんごう だいや。理科大に通ってる、ただの大学生だ」


「……金剛大也こんごう だいや、か」


 シアンは俺の名前を口の中で転がすように呟いた。


「ん? どうした?」


「いや。なんでもない」


 そう答えた彼女は、すぐに前へ向き直った。

 だから俺は気づかなかった。

 その一瞬だけ、シアンの目に浮かんでいた疑念に。

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