プロローグ 均衡の崩れた世界
世界は、神々の慈しみと精霊の織りなす『奇跡』によって満ちていた。
大地には草木が芽生え、天に祈りを捧げれば空は晴れ、魔力を紡ぐと万物は思いのままに形を変える。夜は魔道灯の光が闇を照らし、乾いた土には水魔法の潤いがもたらされる。人々の全ての営みが『魔法』という絶対の恩恵の元に成り立っていた。
魔法は世界の根幹である元素を媒介して放たれている。火魔法は熱を司る元素の放出であり、水魔法は冷気を司る元素の凝集である。その源流を疑う者など誰一人としていなかった。そう、その日を迎えるまでは。
異変は最初、ほんの些細な不具合として観測されていた。
――光の帝国『ルミナス』魔素観測所。
「おい、第三セクターの魔素値がまた勝手に落ちているぞ! 計器の故障か!?」
「まさか、連日すべての観測石が同じ狂い方をするか! 中央魔導炉の出力もすでに規定値を割り込んでいる……っ!」
「馬鹿な、魔導式計算盤セオリー・ブレインの演算結果が収束しないだと? 一体、世界のどこにこれほどの矛盾が生じている――観測水晶の負荷が限界だ、このままでは炉が融解するぞ!」
ここ数日、各地の魔素濃度に説明のつかない揺らぎが確認されていた。術式を構築しても元素が定着せずに霧散する、魔導士の発動する呪文が本来の威力を発揮しない――。観測を司る主席技官たちは、連日の計器の数値異常に冷や汗を流し、中央神殿へと緊急の使者を走らせた。
帝国の心臓部である巨大魔導炉の出力さえもが、理由もなく低下し始めていたのだ。観測水晶の表面には細かな亀裂が走り、この世界の理を支えている基盤そのものが、静かに、しかし確実にキシキシと悲鳴を上げていた。だが、学者も為政者も、一時的な気象変動や観測器の故障として片付け、誰もが深淵で進行している決定的破滅に気付けずにいた。
その歪みはやがて、取り返しのつかない牙を剥いた。
最初は辺境に位置する、木の精霊が住む森『ノヴァフォレスト』だった。
その深部で、永遠に続くと思われた静かなる日常が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
大地を根底から揺るがす凄まじい地鳴りと共に、異形の気配が猛烈な勢いで迫る。
「なんだあのサイズは……!? 樹齢千年クラスのウッドゴーレムだと事前に聞いていたが、あんな途方もない化け物、これまでのどんな記録にも存在しないぞ!」
「待て、森の魔素を自給自足して均衡を保っているはずの奴が、周囲の魔力をまるで底なし沼のように『貪り食っている』……!? そんな異常な生態、この世界の理から完全に外れている!」
精霊の加護を受け、強固な装甲と圧倒的な質量を誇る巨木――ウッドゴーレム。古より森の守護神ガーディアンとして畏れられてきたその魔物が、まるで何かに怯えるように、あるいは狂乱したように暴れ狂っていた。周囲の魔素を異常なまでに貪り食った結果、その巨体は本来のサイズを優に超えて肥大化し、足を踏み出すだけで大地が悲鳴を上げる。生い茂る周囲の木々はぐにゃりとねじ曲がり、森全体を長年包んでいた聖なる加護は、見る見るうちに黒く濁った不気味な澱おりへと変貌していった。
「だめだ!魔力が通じない……!?結界が完全に破られるぞ!」
「ふざけるな、術式が霧散しただと!? この俺の炎槍が、木のゴーレム相手に効かないとは……燃え尽きるどころか、魔法そのものがかき消されたぞ……っ!」
帝国騎士の絶叫が、鬱蒼とした木々に木霊する。
各国の歴戦の魔導士たちが次々と高位の呪文を放ち、炎の槍や光の呪縛を叩きつける。それは本来であれば、いかなる魔獣をも一撃で灰燼に帰すはずの圧倒的な神話の力だった。しかし、ゴーレムはその強靭な魔力耐性を誇示するかのごとく、すべての魔法を弾き飛ばし、神聖な森を踏みにじりながら容赦なく蹂躙していく。蓄えてきた魔力を放出することすら許されず、緻密に組み上げられた術式は完成を目前にして輪郭を失い、淡い光の粒となって虚空へ消えていった。
通じない魔法。発動すらしない術式。理解の及ばぬ現実を前に、魔導士たちの顔から血の気が引いていく。
「馬鹿な……神の与えし奇跡が、こうも簡単に破られるというのか!?」
「もうだめだ、退避しろ! 防壁がもたない、おし潰される――ぐあぁっ!」
轟音と共に防壁が砕け散る。
絶対の理に守られてきたはずの文明の優位が音を立てて瓦解し、圧倒的な暴力を目の前になすすべもなく、絶望の闇が辺りを覆い尽くしていく。
守護神であったはずの巨木は、いまや理を失ったただの暴力の塊と化し、人間の築き上げた防壁を紙細工のように粉砕していった。誰もが、それが世界の終わりへの序曲であると信じて疑わなかった。
――だが、神々の定めた絶対の理がほころびたその亀裂から、この世界の常識すら知らない『異物』が、全く異なる法則を引っさげて迷い込もうとしているとは、この時、誰も知る由もなかった。




