2話 お酢で肉をさらに美味しく!
ぐるるるぅ――。
静まり返った森の中で、俺の胃袋が限界を訴えるように盛大に鳴り響いた。
「なぁ、シアン。いったいどこに向かってるんだ? さすがに足が棒になったし、そろそろ休憩にしてくれよ……。何か胃に入れねぇとマジで倒れる」
その情けなさに、数歩先を歩いていたシアンの背中が止まる。彼女は振り返ることもなく、冷ややかに言い放った。
「……五月蝿いな。もう少し歩けば、この森の外れにある古い駐屯跡に着く。今夜はそこで野営でもするか」
「駐屯跡って、安全なのか?」
「安全かどうかは着いてから確かめろ。お前をそのまま放置して魔物の餌にされるのも後味が悪いが、私の足を引っ張るならここで置いていくぞ」
相変わらず容赦のない物言いだが、見知らぬ森で一人ぼっちになるよりはマシだ。俺はリュックからわずかに余っていたタブレットを取り出して口に放り込み、それを舌の上でコロコロと転がす。じんわり溶け出したレモン味が疲れた身体に僅かに沁みていく。
「……なんだそれ。そんな硬そうな石ころみたいなものを舐めて、気が狂ったか?」
振り返ったシアンが、ジトッとした目を向けてきた。
「保存食だよ。お前も食べるか?」
「いらん。そんな得体の知れない物を食う趣味はない」
鼻で笑って再び歩き出そうとしたシアンの動きが、ぴたりと止まる。
――ケェェ……ッ。キュルルル……。
鳥に似ていながらも、より甲高く不快な鳴き声が、枝葉の向こうから響いてきた。
木々の隙間から、ただならぬ気配を放つ巨体が飛び出してきた。
――ウィンド・コカトリス。体長は大型の犬ほどもあり、風を纏った鋭い翼を羽ばたかせながら、俺たちの頭上の空へと舞い上がる。
「……ほう。いい肉の塊が自ら姿を現したぞ。よろこべ!晩飯はご馳走だ!!」
シアンは不敵に笑うと、腰のホルスターから細身の短剣を引き抜いた。そのまま近くの太い幹を足場にして蹴り飛ばし、一気に上空へと跳ね上がる。
ウィンド・コカトリスの懐へ潜り込み、硬い羽毛を潜り抜けて刃を深く突き刺した。
そのまま彼女は不気味に瞳を爛々と輝かせ、冷徹な詠唱を紡ぎ出す。
「――脈打つ生命を濁らせ、息吹の鎖を引きちぎれ。あがくほどに肺腑は凍てつき、声なき絶望に溺れ死ね……『澱む白血ペイル・ブラッド』!」
直後、コカトリスの羽ばたきが止まり、喉をかき抱くように激しく悶絶すると、ガタガタと身悶えながら地面へドサリと墜落し、そのままピクリとも動かなくなった。
「っ……なんてえげつない……」
圧倒的な殺意と凄まじい死様をまざまざと見せつけられ、俺は思わず足元がすくむのを感じる。
「おい、シアン……。いま一体何をした? あの魔物、急に苦しみ出して呼吸が止まったぞ」
「驚いたか!?これが私の毒魔法だ!!」
シアンは血に濡れた短剣を軽やかに一回転させ、返り血を振り飛ばすと満足げに胸を張る。その瞳には、獲物を狩った高揚感と、自分の力に酔いしれる狂気がギラギラと渦巻いていた。
「ど、毒魔法……?」
俺は思わず引きつった声を漏らし、目の前でぐったりと横たわるコカトリスの死体に視線を戻す。
外傷と言えば、ほんの小さな刺し傷があるだけだ。それなのにこれほど短時間で呼吸を停止させて即死させるなんて――。
「あぁそうだ。私の『澱む白血』はな、標的の体内に取り付いて血肉を濁し、内側から呼吸の仕方を忘れさせるのさ。あがけばあがくほど肺腑が締め上げられて、最後にはこうして綺麗に息絶える。最高だろ?」
楽しげに言い放つシアンの背筋が凍るような残虐さに、俺は再び冷や汗を拭いながら、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「……っておい。その得体の知れない魔法をブチ込んで、肉が無事で済むわけないだろ!」
シアンは小首を傾げたまま、いまいちピンと来ていないような顔をする。戦闘狂じみた気質と生活感の噛み合わなさに、俺はこめかみを押さえて大きく息をついた。
「まあ、もう中身は全滅だろうし食うのは諦めるしかないか……。せっかく仕留めたんだ、可哀想だし素材だけでも持って帰るか」
「ちっ……。いちいちうるさい男だ……」
シアンは頬を膨らませて小さく舌打ちをすると、戦闘の興奮が冷めていくのを感じたのか、気まずそうに視線を逸らした。
俺は彼女から短剣を借り受けると、素材を回収しようとコカトリスの死体へと歩み寄る。
――だが、その腹部の小さな切り傷に近づいた瞬間、鼻を突くようなツンとした酸っぱい匂いがふわりと漂ってきた。
「――この臭い……酢酸か?」
待てよ。体内で酢酸を生成する生物なんて、俺の世界にはいなかったはずだ。
……まさか、こいつの胃酸の成分が酢酸なのか?
いや、でもあんな短い短剣じゃ、この巨体の胃にまで届くはずもない。
じゃあ、なぜ傷口からこんな刺激臭がするんだ?
もし仮に──こいつの毒に酢酸エステル型の構造があって、注入された毒が血液中の酵素エステラーゼによって加水分解されているとしたら……。
つまり、毒成分はそのまま体内に残っていない可能性もある。
「おい、シアン! こいつの肉、食えるかもしれないぞ!」
俺が弾かれたように振り返って叫ぶと、少し離れた場所にいたシアンは目を丸くしてポカンと口を開けた。
「おい、いつまで突っ立ってんだ。さっさと手伝えよ」
声を飛ばすと、シアンは鬱陶しそうに眉をひそめ、コカトリスの翼を乱暴に掴んだ。
「ちっ……。せっかく美味そうだから仕留めたのに、私のせいで食えないなどと騒ぎやがって。まったく、食えるだの食えんだの、わけのわからん男だ」
「文句言うなよ。お前が自分の毒で台無しにしたのは変わらないだろ。ほら、まっすぐ運ぶぞ」
ずっしりと重い巨鳥を二人掛かりで引きずりながら、俺たちはシアンが言っていた駐屯跡へと足を向けた。
道中、シアンは何度もチラチラとこっちの顔を盗み見していたが、やがて我慢できなくなったのか、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「……さっきの話、本当なのかよ。お前の言う、その……なんだ、変な現象で私の毒が消えたって言ったのか」
「ああ。仮説だけどな。正確には消えたって言うより、別の物に化けて無毒化されたって感じだけどな」
シアンは肩をすくめて顎をしゃくった。
「私の毒が妙な汁に化けたというわけか。……まあいい、それで本当に腹が満たせるなら文句はない」
木々の間を抜けると、石造りの崩れかけた壁や、かつて見張り台であろう古びた建造物の影が姿を現す。
「……着いたぞ。ここなら風も凌げる」
足を止め、ドサリとコカトリスの巨体を地面に落とした。
周囲にはうっすらと他の魔物の気配も漂っているが、これだけの肉が手に入ったなら、野営の準備をする価値は十分にある。
「よし、じゃあ早速この肉を下処理して、極上の夕食といくか」
異世界に来てやっとありつけた初めての飯。
今回は贅沢にそのまま丸焼きにすることにした。
「よし、火をつけるぞ。生焼けで腹を壊したら笑い話にもならんからな」
「そういや火はどうするんだ? まさか火魔法とか使えるのか?」
「馬鹿を言え。私は毒魔法しか使えん」
さも当然のように言い放つと、シアンは腰に下げていた小さな革袋を漁り、中から赤黒い石のようなものを取り出した。
「ほら、これを使う」
「……石?」
「火種石だ。知らんのか?」
シアンが呆れたように眉をひそめる。
手のひらに収まるほどのそれは、一見すると赤みを帯びた鉱石にしか見えない。だが、シアンが表面に刻まれた小さな術式へ指を触れた瞬間――。
ボッ、と小さな炎が灯った。
「おおっ!?」
乾いた枝へ近づけると、炎はすぐに燃え移り、パチパチと薪を舐めながら次第に大きくなっていく。
「便利だろ? 魔力を少し流せば火が出る。旅をするなら一つくらい持っているものだ」
「……ちょっと待て。それ、魔力を熱に変換してるのか? それとも中の物質を発火させて――」
「知らん。火がつけばそれでいいだろ」
「いや、そこが一番面白いところだろ!」
思わず食い下がる俺を無視して、シアンは火種石を革袋へ戻した。
――魔力を流すだけで発火する石。
この世界では当たり前の道具らしいが、俺からすれば原理不明のエネルギー変換装置だ。
魔法とやらもそうだが、この世界には調べたいものが山ほどありそうだった。
「おい、いつまで石ころのこと考えてる。肉を焼くぞ」
「あ、ああ。そうだった」
火の上に固定したコカトリスの肉をじっくりと炙っていくと、ジワリと香ばしい脂が滴り落ちた。パチパチと小気味よい音を立てる。
先ほどまで鼻を突いていたツンとした酸味は、熱せられることで気にならなくなっていた。
「……っ、おい。なんだか、思っていたより凄くいい匂いがしてきたぞ」
シアンはさっきまでの冷ややかな態度をどこへやら、あぶり出された肉をじっと凝視し、ごくりと小さく喉を鳴らした。普段の殺気立った雰囲気はすっかり影を潜め、ただの腹を空かせた少女の顔に戻っている。
「だろ? 俺の目利きを信じろって。もうちょいじっくり焼けば、外はカリッと中はジューシーな絶品ローストの出来上がりだ」
パチパチと燃え盛る焚き火の音を聞きながら、俺たちはディナーの完成を、今か今かと待ち構えた。
「よし、そろそろいいだろ……!」
串ごと火から外したところで、俺はふと手を止めた。
「……いや、待て。いきなり腹いっぱい食うのは怖いな。毒が分解されたってのも、まだ俺の仮説に過ぎない」
「ここまで来て何を言ってる。早く食わせろ」
「死にたくなければ少し待て。まず少量だけ試す」
俺は短剣で端の肉をほんの一欠片だけ切り取り、恐る恐る口へ放り込む。噛む。そして飲み込む。
「…………」
「どうだ?」
「少なくとも、舌が痺れるとか喉が焼けるとか、すぐに出る異常はなさそうだな。これで安全だと断定はできないけど――」
その言葉を最後まで聞くより早く、シアンは俺の手から串をひったくった。
「なら十分だ!」
「おい! 人の話聞いてたか!?」
荒々しくそのままダイレクトにかぶりつき、ザクッ、むにゅ、と肉を引き千切る音を響かせて豪快に咀嚼する。
「んむ……っ!?」
モグモグと口を動かしていたシアンの動きが、ピタリと止まった。
目を見開いたまま、彼女は言葉を失ったように手の中を見つめている。戦闘狂として血みどろの場を渡り歩いてきた彼女が、そのあまりの美味さにこれほど動揺している。その反応がなんだかおかしくて、俺は思わず小さく笑った。
「どうだ、硬いだけのパサパサ肉とはおさらばだろう。シアンのおかげだな。」
「……ふん。当然だ! なかなか美味いじゃないか……!」
シアンは顔を真っ赤にしながらも、次の瞬間には再び豪快にかぶりつき、ワイルドな咀嚼音を立てながら猛烈な勢いで頬張っていく。上品さの欠片もないが、それだけ美味そうに食ってくれるなら作った甲斐があるというものだ。
「じゃあ俺も、いただきます!」
俺も負けじと肉にかぶりついた。
――ガツン、と。
硬い魔物肉を想像していた俺の予想を裏切るように、歯がスッと心地よい抵抗とともに繊維を断ち切っていく。噛みしめるたび、じゅわりと濃厚な旨味が溢れ出した。どういう仕組みかはまだ断定できないが、あの酸が肉に何らかの変化を与えているのは間違いなさそうだ。
静かな夜の森に、二人の夢中になって肉を喰らう音だけが、しばらくの間響き渡っていた。




