第5話「レール幅突破戦」①
夜明けの空が、死者たちの海を照らし出していた。
地平線のすべてが黒く染まり、うねり、脈動している。数千、数万という単位を超えた何か。それは大地そのものが腐敗して動き出したかのような光景だった。そしてその黒い海は、線路の上に厚く堆積し、鋼鉄のレールを完全に覆い隠していた。
指揮車両の窓辺で、ジューコフは双眼鏡を下ろした。
「線路が見えん」
声は冷静だった。むしろ冷静すぎて、隣に立つコズロフの方が背筋を冷たくした。
「同志元帥、このままでは——」
「わかっている」
ジューコフは伝声管を手に取った。全車両に通じるスイッチを切り替える。
「総員、戦闘配置。全速力で線路を突破する」
「……は?」
最初に反応したのは機関室のオルロフ爺だった。伝声管から聞こえてくる声が、一オクターブ上がっている。
「元帥、言ってることがわからん。線路が見えねえんだぞ。見えねえ線路の上を全速力で走れって、正気か」
「正気かどうかは関係ない。前に進むだけだ」
「違う! 俺が言ってるのはそういう精神論じゃなくて、物理の問題だ!」
オルロフ爺の声は怒気を含んでいた。蒸気機関車を四十年以上操ってきた男にとって、「線路が見えない」という状況は、魚に「水の外を泳げ」と言うに等しい。
「物理の問題なら、物理で解決する」
ジューコフは別のスイッチを入れた。
「クズネツォフ中尉。指揮車両に来い」
「すぐに」
工兵隊長の返事は短かった。
◇ ◇ ◇
ミハイル・アンドレーエヴィチ・クズネツォフは、いつも通りの無表情で指揮車両に入ってきた。軍服はすでに油と煤で汚れ、首には溶接用ゴーグルを提げている。彼はジューコフの前に立ち、敬礼もせずに口を開いた。
「同志元帥。先に結論を言います。走れます」
コズロフが眉を上げた。
「……話が早いな。まだ何も言っていないぞ」
「線路が埋まっているのを見ました。元帥は『走れ』と言うだろうと思いました。私は『走れるかどうか』を考えていました。結論は、走れます。ただし条件があります」
「言え」
クズネツォフは地図の上に身を乗り出し、線路の図面を広げた。
「まず、軌間の問題です。我々が現在走っているのはソ連広軌、1,524ミリです。しかしスモレンスクはドイツ軍に長期間占領されていました。つまり、この先の区間の一部は、ドイツ式標準軌の1,435ミリに改軌されている可能性が高い」
「89ミリの差か」
「そうです。たかが89ミリですが、車輪のフランジがレールに噛み込みます。通常なら、走行不能です」
「通常でなければ」
クズネツォフは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。笑っているのかどうか、誰にも判断できなかった。
「通常でなければ、レールごと破壊します」
車両に沈黙が落ちた。
「……説明を続けろ」
ジューコフの声は相変わらず冷静だったが、その目には興味の光が宿っていた。
「広軌の車輪は、標準軌のレールより89ミリ幅広です。つまり、レールの上に正確に乗らず、フランジがレールの内側に噛み込みます。この状態で速度を落とさずに進めば、車輪がレールを枕木から引きはがします」
「レールを壊しながら走る、と言うのか」
「そうです。そしてレールがなくなった後は——」
クズネツォフは図面の上に指を走らせた。
「枕木と砂利の上を、そのまま滑走します」
「そんなことが可能なのか」
「理論上は。実戦で試したことはありません。当然です。こんな無茶をやる機会など、歴史上誰にもなかった」
クズネツォフは顔を上げ、ジューコフの目をまっすぐに見た。
「問題は二つ。摩擦と振動です。車輪はレール用に設計されています。枕木はレールよりはるかに柔らかい。つまり、車輪が枕木に沈み込みます。一本や二本ではありません。数百メートル、場合によっては数キロにわたって、列車は枕木を噛み砕きながら進むことになります。車軸にかかる負荷は、設計限界の——」
「何倍だ」
「……計算しないほうがいい数字です」
ジューコフは腕を組んだ。
「車軸が折れる可能性は」
「非常に高いです。断言します。必ず、どこかの車軸が損傷します」
「いつだ」
「わかりません。最初の数百メートルか、あるいはスモレンスク目前か。運次第です」
「運か」
ジューコフは地図を見下ろした。モスクワを発ってからまだ一日も経っていない。スモレンスクまであと三十キロ。これが最初の停車駅。そしておそらく、最初の地獄だ。
しかし、後退の選択肢はない。
「オルロフ爺」
ジューコフが伝声管に向かって呼びかけると、機関室から酒焼けした声が返ってきた。
「聞こえてるよ。全部な。……クズネツォフ、お前、本気で言ってるのか」
「本気です」
「……イワンが壊れるぞ」
「壊れます」
「それでもやれって言うのか、元帥」
ジューコフは一呼吸置いて、言った。
「やれ。命令だ」
伝声管の向こうで、長い沈黙があった。そして、オルロフ爺の声がした。それは笑い声に近く、泣き声に近く、そして戦場でしか生まれないような奇妙な熱を帯びていた。
「……そう来なくっちゃな!」
◇ ◇ ◇
準備は十分だったのか、それともまったく足りていなかったのか。工兵のクズネツォフにもわからなかった。
彼は車両から車両へと走り、全乗組員に指示を出した。衝撃に備えて床に伏せること。すべての荷物を固定すること。窓から離れること。そして、祈れる者は祈れ、と。
最後の指示は、工兵隊長としては不適切だったかもしれない。しかしクズネツォフは、自分がこれからやろうとしていることを一番よく理解していた。設計限界の何倍だ? 五倍? 十倍? そもそも設計限界という概念が、今から起きることの前では無意味だった。
「機関車を、地面の上で走らせるんだぞ」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
「……そんなこと、誰が考えつくんだ」
◇ ◇ ◇
「全車両、衝撃に備えよ!」
コズロフの声が伝声管を通して全車両に響いた。客車の中では、歩兵たちが床に腹這いになり、座席の脚にしがみついている。
「なんで俺たち、まだ死んでないんだっけ」
コサックのキリレンコが呟いた。隣で歩兵隊長のグロモフが、座席の支柱を握りしめながら答える。
「死んでないからだ。まだ」
「深いですね。ジョークですか」
「違う。ただの事実だ」
「あ、そうですか。残念です」
「何が残念なんだ」
「ジョークのほうがまだ笑えます」
食堂車の隅では、神父イヴァンが目を閉じて祈っていた。向かいの席に政治将校のコミッサロフが座っている。いつもの口論は始まらない。ただ沈黙だけが、二人の間に横たわっていた。
「……祈ってるのか、同志」
「祈っています、同志」
「効くのか」
「わかりません」
イヴァンは目を開けた。その顔には、不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
「でも、祈らないよりはマシです」
コミッサロフはしばらく考えてから、手帳を開いた。何かを書き始める。
「……何を書いている」
「手帳だ。報告書の下書き。万が一死んだら、誰かに読んでもらう」
「遺書ですか」
「違う。報告書だ。最期まで私は政治将校だ。ゾンビなどという非唯物論的存在に屈したという記録を残すわけには——」
「同志。あなたは立派な政治将校です。たぶん、この列車で一番規則に忠実だ」
コミッサロフは顔を上げた。
「……それは褒めているのか」
「もちろん」
イヴァンの笑みに、コミッサロフは何か言おうとして、やめた。代わりに、小さくうなずいただけだった。
◇ ◇ ◇
「機関室より全車両へ」
伝声管から、オルロフ爺の声が響いた。声は震えていなかった。少なくとも、表面上は。
「これよりイワンは、線路のない大地を走る。総員、覚悟しろ。それと——」
一呼吸。
「誰か、後で俺にウォッカを奢れ。いいな。これは命令だ。機関士の命令だ。元帥の命令より重いぞ」
誰かが小さく笑った。緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「よし、イワン」
オルロフ爺はレバーを握り直した。
「行くぞ」
汽笛が轟いた。
蒸気が噴き出し、ピストンが唸り、車輪が軋む。イワンは加速を始めた。前方には黒い海——ゾンビの堆積と、その下に隠れた線路。ソ連広軌か、ドイツ標準軌か、あるいはどちらでもないか。
知るか。進むだけだ。
最初の衝撃は、誰も予想できなかった。
◇ ◇ ◇
ガギイイイイイイイイン——!
金属が金属を噛み砕く音が、列車全体を貫いた。蒸気の悲鳴でも、車輪の軋みでもない。それはレールそのものが悲鳴を上げている音だった。
機関室で、オルロフ爺は歯を食いしばった。
操縦桿から伝わってくる振動が、これまで経験したどんな走行とも違っていた。通常の振動は「上下」が主だ。しかし今、イワンは「左右」に激しく揺さぶられていた。広軌の車輪が標準軌のレールに噛み込み、引きちぎり、枕木を砕きながら、それでも前に進んでいるのだ。
「イワン! イワン、頑張れ!」
彼は叫んだ。蒸気圧計の針が危険域に跳ね上がっている。安全弁が作動し、白い蒸気が吹き出した。それでも彼は速度を緩めなかった。
指揮車両で、ジューコフは窓の外を見つめていた。
線路が、消えていく。
正確には、列車が通過した後の地面に、レールがなくなっていた。車輪が根こそぎ引きはがしたレールは、後方でねじ曲がった鉄くずとなって跳ね飛ばされている。枕木は砕かれ、砂利は四方に飛び散り、かつて線路だったものは、ただの「傷跡」と化していた。
「これで後続は来れないな」
ジューコフの呟きに、コズロフが反応した。
「後続? 我々の後ろに味方の列車が?」
「いや。そもそも後続の予定はない。どのみち我々は後退しない。だから——」
ジューコフは窓の向こうの破壊の跡を見つめながら、微かに口元を歪めた。
「レールは惜しみなく壊していい」
それがジューコフの笑い方だと知っている者は、副官のコズロフだけだった。
◇ ◇ ◇
「報告書に——」
コミッサロフは床に這いつくばりながら叫んだ。列車の揺れで歯がかみ合わない。
「報告書に、どう書けばいいんだ、これは! 鉄道を破壊しながら走っていますだと? 運輸人民委員部が、運輸人民委員部が——」
「運輸人民委員部はゾンビに食われてるかもしれんぞ!」
グロモフが別の車両から怒鳴り返した。
「それでも規則は規則だ!」
「規則を破った報告書を規則通りに書くのがお前の仕事だ!」
コミッサロフは絶句し、それから手帳を握りしめて床に伏せた。
「……論理的だ。非常に論理的だが、認めたくない」
隣で神父イヴァンが、揺れながらも静かに笑っていた。




