第4話「152ミリの歓迎砲」②
夜の列車、それぞれの顔
【指揮車両——ジューコフ】
ジューコフは一人だった。
机の上に一枚の手紙が広げられている。娘のエレーナからの手紙だ。すでに何度も読み返したそれは、紙が擦り切れ始めていた。
『パパへ。モスクワは寒いです。でも、ママがパパのオーバーを出してくれたから、それにくるまって寝ています。パパの匂いがするから、怖くないです。——エレーナ』
彼は手紙をそっと折り畳み、胸ポケットに戻した。そして机の隅に置かれたアコーディオンに手を伸ばす。古びたそれは、彼が戦場にいつも持ち歩いているものだった。
指が鍵盤に触れる。しかし彼はまだ、音を出さなかった。
「……まだ、早い」
ジューコフはアコーディオンをしまい、窓の外の星空を見上げた。まだ泣いていい時じゃない。まだ前に進まなければ。
【機関室——オルロフ爺】
オルロフは一人、イワンのボイラーに話しかけていた。
「なあ、イワン。俺の息子、アレクセイはな、お前のことが大好きだったんだ」
彼はウォッカ瓶を傾け、ほんの少しだけ機関車の足元に垂らした。
「初めてお前の図面を見せた時、あいつ、目をキラキラさせてな。『父ちゃん、これ本物の戦う汽車?』ってよ。ああ、本物だとよって、まだ図面だったんだがな」
彼は笑った。そして泣いた。
「……アレクセイが死んだのはな、鉄道じゃない。歩兵だった。ドイツの機関銃にやられた。なあ、イワン。あいつ、お前みたいな機関車に乗せてやりたかったよ。そうすりゃ、死ななかったかもしれねえ」
オルロフはウォッカをもう一口。そしてイワンの計器盤を優しく叩いた。
「だからよ。今度は俺が行く。あいつの代わりにベルリンまで。いいな、イワン」
蒸気が、シューッと小さく漏れた。返事のように。
【屋根の上——カチューシャ】
彼女は一人、星を見ていた。
「……今日は三十一人」
彼女の唇からこぼれた数字は、誰に向けられたものでもなかった。
「三十一人。うーん、もっと撃てると思ったんだけどな。みんながいろんな方向から撃つから、取り合いになっちゃう」
彼女はスコープを覗き、夜の平原を見渡した。動くものは何もない。
「あ、でも、明日はもっと多いといいな。二千キロもあるんでしょ? どれだけ撃てるんだろう」
彼女は笑った。目は、やっぱり笑っていなかった。
【食堂車——コミッサロフ】
コミッサロフは一人、手帳と格闘していた。
「本日の戦闘記録——」
彼はペンを走らせ、そして止めた。
「敵性残存戦力、約三千と交戦。我が方の被害——」
またペンが止まる。
「『敵性残存戦力』。うん。これでいい。ゾンビとは書けん。書いたら私が査問だ。ゾンビを公式文書に書いた初の政治将校として。……いや、待て。死者が蘇る現象を『敵性残存戦力』と表現すること自体が、唯物論的に正しいのか?」
彼は頭を抱えた。
「そもそも、これは誰に提出する報告書なんだ。この任務は存在しないのに。存在しない任務の報告書を誰が読むんだ。私が読むのか? 未来の私が? つまり自己満足か?」
彼はペンを置き、深いため息をついた。
「……私は、なぜこの列車に乗っているんだ」
誰も答えなかった。
【食堂車・別の席——神父イヴァン】
同じ食堂車の隅で、イヴァンは密かに十字架を握り、祈っていた。
「主よ、今日、我々が再び眠らせた者たちに、永遠の安息を」
「おい、衛生兵」
コミッサロフの声がした。イヴァンが目を開けると、政治将校が手帳を片手に立っている。
「……またその祈りか」
「祈りは無料です、同志」
「問題は無料かどうかじゃない。問題は——」
「唯物論に反する、と」
「そうだ」
イヴァンは静かに微笑んだ。
「同志コミッサロフ。もしあなたが唯物論でこの現象をすべて説明できるなら、私はすぐにでも祈りをやめましょう」
コミッサロフは口を開き、そして閉じた。
「……まだ、説明できん」
「では、私の祈りもまだ必要です」
「詭弁だ」
「信仰とは、そういうものです」
二人は睨み合い、そして同時にため息をついた。これが、この列車の日常になりつつあった。
コミッサロフは何か言おうとして、やめた。代わりに、イヴァンの向かいの席にどっかと座った。
「……お前のその祈り、私には効果があるかわからんが」
「ええ」
「少なくとも……うるさくはないな」
イヴァンは嬉しそうに微笑んだ。
「それは、最大の賛辞です。同志」
コミッサロフは照れ隠しのように手帳を開き、何かを書き始めた。何を書いたかは、誰も知らない。
【歩兵車両——グロモフとキリレンコ】
歩兵たちは車両の床に座り込み、トランプを回していた。グロモフがジョーカーを引き当て、得意げに笑う。
「よし、これで俺の勝ち——」
「大尉、ルールをご存じですか。ジョーカーはこのゲームでは使わないんです」
キリレンコが冷静に指摘した。部下たちから苦笑いが漏れる。
「……知ってるよ」
「知らなかった顔でしたけど」
「知ってた! ただ……そう、みんなを笑わせようと思ってな!」
「笑ってません」
部下の一人が遠慮がちに手を挙げた。
「あの、大尉……さっきの戦闘中、線路の上にゾンビが来た時」
「ああ」
「大尉が『今の、笑えました』って言われて『ジョークじゃない』って言ったやつ。あれは、ちょっと面白かったです」
グロモフはきょとんとし、それから大きな声で笑った。
「キリレンコ、聞いたか! ついに俺のジョークが——」
「大尉、あれはジョークじゃなかったとご自分でおっしゃったでしょう」
「細かいことはいいんだ! 笑いは笑いだ! よし、乾杯だ!」
グロモフはウォッカ瓶を掲げた。部下たちも苦笑いしながら、それぞれの水筒を掲げる。戦闘の後の、つかの間の安らぎだった。
【医療車両——ペトロヴァ】
軍医のナターリヤ・ペトロヴァは、一人で医療器具の手入れをしていた。
彼女がこの列車に乗ったのは、出発のほんの数時間前のことだ。ジューコフに「来い」と言われ、断る間もなく連れてこられた。今、彼女の手元には、馬用の巨大な注射器がある。
「……これ、本当に人間に使う日が来るとは思わなかった」
彼女は苦笑いし、注射器を丁寧に消毒した。
「でもまあ、牛の帝王切開よりは、まだマシか。たぶん」
「たぶん」が口癖になりつつある自分に気づき、彼女はもう一度苦笑いした。
【客車の通路——クラスノフ博士】
彼だけは眠っていなかった。
「信じられん! 今日のデータだけでも、論文が三本書ける!」
彼はノートにびっしりと観察記録を書き込んでいた。ゾンビの移動速度、反応時間、頭部破壊後の活動停止までのタイムラグ。インクが切れかけ、彼はペンを振り回した。
「くそっ、こんな時に! 誰かインクを持っていないか! いや、この現象の前ではインクなど些細な、しかしインクがなければ記録が、記録がなければ科学が——」
誰も相手をしなかった。すでにクラスノフは「そういう人」として認識されていた。
◇ ◇ ◇
夜が明ける。
東の空が白み始め、星が一つ、また一つと消えていく。列車は減速し、見張りが交代した。
そして、見張りの一人が、前方の異変に気づいた。
「同志元帥!」
伝声管を通して、緊張した声が指揮車両に届いた。
「前方に動く影の群れです! 規模は……昨日の比じゃありません!」
ジューコフは即座に起き上がった。もともと眠っていなかったかのような素早さで、双眼鏡を手に取り窓辺に向かう。
コズロフも飛び起きて地図を広げる。
「場所は?」
「現在地から約十キロ先。推定で——」
「数はどうでもいい」
ジューコフの声に、伝声管の向こうの見張りが息を呑んだ。
「進路は」
「スモレンスクまで、あと三十キロです」
ジューコフは双眼鏡を構えた。夜明けの薄明かりの中、地平線が黒く染まっているのが見えた。ゾンビの群れだ。だが、その向こうに、もっと大きな影がある。
線路が、埋まっている。
「……線路が見えん」
ジューコフの声は、驚くほど冷静だった。
伝声管から、オルロフ爺の声がした。
「止めるか、元帥」
ジューコフは双眼鏡を下ろした。手にしたまま、ほんの一瞬だけ考えるような仕草を見せた。が、すぐに顔を上げた。
「いや」
「機関士として忠告する。線路が見えねえのに突っ込むのは、正気じゃない」
「正気かどうかは関係ない」
ジューコフは伝声管を握り直した。その声は、全車両に響き渡る。
「総員、戦闘配置。全速力で線路を突破する。車軸が折れても進め。脱線しても進め。いいな」
一瞬の沈黙の後、オルロフ爺の声がした。それは笑い声に近かった。
「そう来なくっちゃな!」
イワンの汽笛が、夜明けの空に轟いた。
蒸気が噴き出し、ピストンが加速し、車輪が咆哮する。列車は速度を上げ、線路を埋め尽くすゾンビの海へ、まっすぐに突き進んでいく。
地平線の向こうに、スモレンスクの影が浮かび上がった。
最初の停車駅。最初の地獄。
しかしジューコフの目は、すでにその先を見据えていた。
——第1章「片道切符だ、同志諸君」 完——




