第19話:人類の咆哮
夜明け前。ベルリン郊外の空に、不気味な静寂が漂っていた。
イワン二号は減速し、瓦礫だらけの線路を慎重に進んでいる。前方には、研究所を守るドイツ国防軍の最後の防衛線。しかし今はゾンビに占拠されたトーチカ群と、そこに群がる無数の死者たち。そしてその奥に、発信源であるアーネンエルベの研究所。無機質なコンクリートの建物からは、不気味な電波が今も発信され続けている。
「同志元帥。前方のゾンビ密度、これまでの最大です」
クラスノフ博士の声が伝声管から響いた。
「数は」
「推定、数万。いえ、数十万規模かと。研究所を守るために、この一帯のゾンビがすべて集結しているようです。電波の指向性も変わりました。発信源が、我々の接近を感知して防衛態勢に入った可能性があります」
「発信源に意思があるのか」
「少なくとも、自己保存のための行動を取っています。ゾンビを使って、自分自身を守ろうとしている」
ジューコフは腕を組んだ。自分を守るために死者を操る。それはもはや機械的なシステムではなく、一つの生命のように振る舞っている。相手は理解不能な「何か」だ。しかし彼は、理解不能なものと戦うことには慣れていた。ゾンビも幽霊列車も、結局は吹き飛ばしてきた。
「博士。発信源に知性があるなら——」
「交渉は不可能でしょう。相手は人間の論理では動いていません」
「交渉する気はない。あるなら弱点があるはずだ、と思っただけだ」
「……弱点ですか。あの電波そのものが、発信源の生命線です。電波を止めればすべてが終わる。ならば弱点は発信装置そのもの。狙うべきは一点だけです」
「十分だ」
ジューコフは伝声管を取った。
「全砲門に通達。目標は研究所中央の発信装置。しかし、その前にあの防衛線を突破しなければならない。そのための手段は——」
その時だった。
無線室から、通信兵の叫び声が響いた。
「同志元帥! 未確認の無線信号! これは、英語です!」
「何だと」
「傍受します! こちら、アメリカ陸軍航空隊、第8航空軍、第91爆撃群。B-17編隊、現在貴隊の上空に接近中。聞こえるか、地上部隊。応答を求む!」
無線機から流れてくる若い男の声は、ひどく陽気で、そしてわずかに震えていた。このクソみたいな状況下で、それでも任務を遂行しようとする意志が感じられた。
ジューコフは通信兵からマイクをひったくった。
「こちらソ連装甲列車『スターリンの鉄槌』号。司令官、ゲオルギー・ジューコフ元帥だ」
「ジューコフ!? モスクワのジューコフ元帥か? なんてこった、あんたが自ら前線に? しかも列車で? ……いや、驚いてる場合じゃない。こちらジョセフ・ハミルトン大尉。部下からはジョーイと呼ばれてる。オハイオのトウモロコシ農家の息子だ。それがなんでこんなとこにいるかって? 俺もよくわかってない」
「大尉、状況を話せ」
「了解。我々は連合軍統合司令部の命令で、ベルリン郊外のゾンビ密集地帯への戦略爆撃を任務としている。聞けば、あんたたちは研究所を破壊するのが目的らしい。こいつは偶然かどうかは知らないが、我々の爆撃が地上部隊の突破口を開ける。爆撃でゾンビの壁に穴を開けるから、その隙に突入しろ。これでどうだ」
ジューコフはほんの一瞬だけ沈黙した。連合軍。つい最近まで共通の敵として睨み合っていた相手が、今、上空から援護を申し出ている。これはもはや共闘ですらない、一つの種族としての最後の戦いだった。
「……大尉。感謝する」
「感謝は後だ、元帥。まずはこの地獄を終わらせよう。あんたがたが研究所をぶっ壊す。俺たちはそのための道を作る。それで手を打とう。あ、それと、うちの副操縦士が、アンナっていうんだが。ポーランド系でな。彼女の祖母がワルシャワにいるらしい。まだ生きてるかどうか——」
「ワルシャワは突破した。生存者もいた」
「マジか! アンナ、聞いたか! よし、元帥。これは俺からの個人的な礼だ。特別に、もう一波多く爆弾を落としてやる。整備班に怒られるが、構うもんか!」
通信が切り替わり、ハミルトン大尉の声が編隊全体に響いた。
「全機、聞こえるか。目標は地上のゾンビ密集地帯。研究所の周囲に集中しろ。地上部隊が突入するための道を作るんだ。クレイジーなロシア人たちが列車ごと突っ込むらしいからな。正直、正気とは思えんが、これが今できる最善の策だ。さあ行くぞ!」
轟音。
B-17爆撃機編隊が、雲の切れ間から姿を現した。機体の側面には、無数の爆弾が搭載されている。編隊はきれいなV字隊形を組み、研究所の周囲に密集するゾンビの海に向けて降下を開始した。
「爆弾投下! 全弾、撃ち尽くせ!」
ハミルトン大尉の叫びとともに、数十発の爆弾が落下し始めた。数秒後、地上が白く染まった。爆発、また爆発。研究所を取り巻くゾンビの海に、次々と巨大なクレーターが穿たれる。ゾンビの肉片が吹き上がり、土砂が舞い、衝撃波が次々と大地を叩いた。
B-17編隊は何度も旋回し、爆弾が尽きるまで爆撃を続けた。連合軍の空爆は、三波にわたって続いた。研究所周辺のゾンビ密集地帯は、文字通りひっくり返された。突破口が、確かに開いていた。
「最終弾、投下完了! 元帥、あとは任せた! 俺たちは帰投する。頼むぜ、絶対に終わらせてくれ。人類の命運が、あのクレイジーな列車に懸かってる!」
無線が途切れ、B-17編隊は西の空へと去っていった。彼らは全弾を使い切り、これ以上できることはもうなかった。ハミルトン大尉は最後に、小さく呟いた。
「――幸運を祈るぜ、このイカれた野郎ども!」
◇ ◇ ◇
突破口が開かれた。研究所までの道が、確かにできていた。しかし、そこにはまだ最後の装甲防衛線が立ちはだかっていた。ゾンビの群れを掃討した空爆の跡地には、トーチカのコンクリート壁が残り、そこからゾンビ化したドイツ軍兵士が次々と這い出していた。
「全砲門! 前方の防衛線を掃射! 弾薬は惜しむな!」
ジューコフの命令で、戦車貨車の三両すべてが火を噴いた。
ティーガーの88mm砲がトーチカを吹き飛ばし、IV号の75mmがゾンビの密集を粉砕し、III号突撃砲が残存する敵を薙ぎ払う。フォン・シュタインベルクは照準器を覗き、自ら引き金を引いた。
「かつて我々はこの街を守ろうとした。今は、この街を終わらせるために、私は戦車砲を撃っている。皮肉なものだ」
「少佐。そういう難しいこと、ぼくにはよくわかりません」
バウマンが操縦席から言った。
「でも、終わらせなきゃいけないことだけはわかります」
「……そうだな。それで十分だ」
戦車砲の斉射が続く。全砲門が火を噴き、ゾンビの防衛線を粉砕していく。一発ごとに貨車が揺れ、連結器が軋み、イワン二号の蒸気圧が限界に達しようとしていた。発射の反動で戦車貨車の固定鎖が数本またもや弾け飛んだが、フィリポフとベッカーは構わず次の鎖を巻き直した。彼らの手は震えていたが、それでも動き続けた。
そして、戦車砲の最後の一発が発射された。
「全弾、撃ち尽くしました!」
フォン・シュタインベルクの声が、伝声管を通して全車両に響いた。もう砲弾はない。機関銃の弾薬も底をつきかけている。あとは、この列車そのものだけが最後の武器だった。
「総員に告ぐ」
ジューコフの声は、これまでにないほど静かだった。
「武器は尽きた。残された手段は一つだけだ」
彼は一呼吸置いた。
「全速力で研究所に突入する。列車ごとだ。総員、衝撃に備えよ。以上だ」
車内に、奇妙な静寂が広がった。誰もが理解していた。これが最後の走りだと。そして誰も反対しなかった。それは諦めではなかった。むしろ、全員が「そうするべきだ」と思っていたからだ。この列車で、この仲間で、最後まで戦い抜く。それが彼らの選んだ答えだった。
◇ ◇ ◇
機関室で、オルロフ爺は操縦桿を握りしめた。
「イワン二号」
彼の声は震えていなかった。
「初代イワン。クズネツォフ。キリレンコ。カチューシャ。アントン。それから、この列車で散っていった全員。見ていてくれ。これが、俺たちの最後の走りだ」
彼は蒸気圧の安全弁を外した。限界を超えた蒸気が、轟音とともに噴き出す。ボイラーの針が振り切れ、圧力計が悲鳴を上げる。しかし彼はアクセルを全開にした。それでも足りず、蒸気圧を限界突破させ、イワン二号を最後の疾走へと駆り立てた。
「——走れぇぇぇぇぇぇっ!」
イワン二号は、最後の咆哮を上げた。
鋼鉄の巨体が、瓦礫の山を乗り越え、半ば脱線しながら研究所へと突き進んでいく。車輪が浮き、レールが千切れ、枕木が砕け散った。火花が滝のように流れ落ち、蒸気が白く吹き出し、連結器が軋みを上げて歪む。戦車貨車も、客車も、すべてが悲鳴を上げている。しかし列車は止まらなかった。まるで意志を持っているかのように、ただ前だけを見つめて走り続けた。
車内で、乗組員たちはそれぞれの方法で最後の瞬間に備えていた。ペトロヴァは医療バッグを抱えしめ、神父イヴァンと牧師クラウスは肩を並べて祈りを捧げ、コミッサロフは手帳を胸に抱えて「報告書はここにあり」と呟き、ヴェーバーは窓の外の研究所を見つめながら「ようやく終わる」と静かに言った。
フィリポフはクズネツォフの手帳を握りしめ、ベッカーは最後のボルトを締めた。ハルトマンは部下たちに「最後まで持ち場を離れるな」と言い残し、ボリスは無言で前を見ていた。
そしてグロモフは、キリレンコのサーベルの鞘を握りしめていた。
「——見てろ、キリレンコ。これで終わりだ」
研究所の入り口が目前に迫った。コンクリートの壁。鉄の扉。防衛線の残骸。数十万のゾンビの残骸が散らばるその向こうに、発信装置が、確かに脈打っていた。
「全員——突っ込むぞ!」
オルロフ爺の絶叫が、列車中に響き渡った。
イワン二号は研究所の壁に激突した。衝撃。轟音。鋼鉄とコンクリートが同時に砕け、時空が一瞬だけ歪んだかのような静寂が訪れた。
そして、爆発。




