第18話:ベルリンへの道
ポズナンを発ってから、列車の中の空気は変わっていた。
これまでは、戦いのたびに緊張と安堵が交互に訪れていた。しかし今は違う。張り詰めた静けさが、車内全体を包み込んでいた。次の戦いが最後の戦いになる。そしてその戦いは、これまでのどれよりも激しいものになる。誰もがそれを理解していた。誰もがそれを覚悟していた。
イワン二号は、冬の平原をひた走った。速度は時速六十キロ。オルロフ爺は最後の補給で手に入れたビールを、ちびちびとやりながら計器を見つめている。ウォッカはまだ底をついたままだが、もはや彼は酒に頼らなくても走れるようになっていた。それもまたこの旅が彼に与えた変化だった。
客車の一室。グロモフは一人、窓の外を見つめていた。
彼の隣の席には誰も座っていない。しかしそこには、キリレンコのサーベルの鞘が置かれていた。遺体は見つからなかったが、鞘だけは操車場の片隅で見つかったのだ。鞘は折れて、刃は欠けていたが、それでも鞘は確かにそこにあった。
「大尉」
声がして振り返ると、ボリスが立っていた。彼の目は少し赤かったが、それだけだった。スターリングラード以来の涙を流した後、ボリスはまた無口に戻っていた。しかしアントンがいなくなった今、彼が何を考えているのか、グロモフにはなんとなくわかる気がした。
「ボリスか。どうした」
「……これ」
ボリスが差し出したのは、一枚の紙だった。ボロボロで、折り目が何度もついている。それはアントンがいつもポケットに入れていた、故郷の母親からの手紙だった。
「彼の遺品です。棺も墓もない。指揮官が持っていてください」
グロモフは手紙を受け取り、そっと広げた。走り書きのような文字で「元気ですか。こっちはみんな無事です。早く帰ってきてね。母より」とだけ書かれていた。短い手紙だった。しかしそこには、確かに母親の愛情が込められていた。
「……あの若造、最後に勇敢だったな」
「ああ。俺が保証する」
ボリスはそれだけ言って、持ち場に戻っていった。彼の背中を見送りながら、グロモフは手紙をそっと自分の胸ポケットにしまった。キリレンコのサーベルの鞘と、アントンの母からの手紙。これが彼の背負うものだった。
◇ ◇ ◇
指揮車両で、ジューコフは一枚の紙に向かっていた。
彼の手にはペン。机の上には白紙。彼は何かを書こうとして、ペンを置き、また取り、そしてまた置いた。彼の背後で、コズロフが黙って書類を整理している。彼の手元には、これまでの戦死者のリストがあった。ポズナンで散った者たち、ワルシャワで倒れた者たち、スモレンスクで死んだ者たち。すべての名前が書き連ねてある。
「手紙ですか、元帥」
「……ああ。娘たちに」
「珍しいですね。戦場から手紙を書かれるとは」
「最後になるかもしれないからな」
ジューコフの声は、驚くほど穏やかだった。いつもの怒号も威圧もない。ただ一人の父親として、娘たちに言葉を残そうとしている。コズロフはそれを理解し、何も言わずに書類の整理を続けた。
「書き出しは決まっている」
ジューコフはようやくペンを取った。そしてゆっくりと、一文字ずつ書き始めた。書き出しは決まっていた。しかし、その続きを書くには、まだ時間がかかりそうだった。彼は書き途中の手紙をそっと折り畳み、胸ポケットにしまった。娘たちの手紙と絵が入っているのと同じポケットに。
「明日、書き上げる」
「では明日、必ず」
「ああ」
◇ ◇ ◇
戦車貨車では、バウマンがティーガーの操縦席で一人、紙に何かを書いていた。
「マリアへ。ぼくはまだ生きています。今、ベルリンに向かっています。ソ連の人たちと一緒に戦っています。最初は怖かったけど、今は違います。彼らは、思っていたのとは違いました」
彼はペンを置き、手紙を読み返した。検閲も何もない、ただの手紙だった。届くかどうかもわからない。しかし彼は書き続けた。書くことで、自分がまだ生きていることを確かめたかったのだ。
「パン屋の三男は、戦車に乗っています。貨車の上から戦車砲を撃ちました。世界で初めてだそうです。自慢できる話ができました。戦争が終わったら、聞いてください。それから、一緒にパンを焼きたいです」
彼は手紙を折り畳み、軍服の内ポケットにしまった。そして操縦桿を握り直した。あと少しだ。あと少しで、戦争が終わる。そう信じることが、彼の最後の燃料だった。
◇ ◇ ◇
その隣の車両では、クラウス牧師とイヴァン神父が静かに祈りを捧げていた。
「牧師。戦争が終わったら、何をされますか」
「……教会に戻ります。そして、戦場で見たことを、伝えます。神の存在を疑ったことも、それでも祈り続けたことも。あなたは」
「私も教会に戻ります。でも、もう隠れたりしません。堂々と十字架を掲げて、祈ります。同志コミッサロフが何と言おうと」
「あの政治将校のことですか」
「ええ。彼は規則を愛し、唯物論を信じ、でも本当は誰よりも誠実です。戦後もきっと、『非科学的だ』と言いながら、私の教会に顔を出すでしょう」
クラウスは声を出さずに笑った。
「それはいい。私も、できることならあなたの教会を訪ねたい」
「喜んで。同志コミッサロフも一緒に。きっと彼は『宗派を超えた国際的宗教陰謀だ』と言うでしょうが」
二人は微笑み合い、それから静かに祈りに戻った。
◇ ◇ ◇
貨車の隅で、コミッサロフは今日も手帳と格闘していた。
彼の手帳には、これまでの戦闘記録がびっしりと書き込まれている。ゾンビの数、消費した弾薬、負傷者の名前、戦死者の名前。そして今、彼はそれらを最終報告書としてまとめようとしていた。
「同志元帥。報告書の草案ができましたが」
「読め」
コミッサロフは手帳を開き、震える声で読み上げ始めた。
「『特務装甲列車第一号、モスクワ=ベルリン間における戦闘報告書。交戦した敵性勢力、ゾンビ、幽霊列車その他未確認霊的実体。使用した戦術、聖水散布、複線ドリフト体当たり、戦車貨車連結、無人在来線爆弾——』」
彼はそこで言葉を切り、深いため息をついた。
「……私、これを提出したら、どうなりますかね」
「知らん。だが」
ジューコフは微かに口元を歪めた。
「読んでみたい報告書だ。提出しろ」
「承知しました」
コミッサロフは手帳を閉じ、敬礼した。彼の顔には、奇妙な誇りが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
ペトロヴァは最後の医療物資の確認をしていた。
彼女の医療バッグには、馬用鎮静剤がまだ数本残っている。包帯は少ない。縫合糸も心許ない。そして彼女自身も、疲労のピークだった。
「……たぶん、これで最後ですね」
彼女は医療バッグを抱え、壁にもたれた。
「最後の戦いが終わったら、何をしようかな。コルホーズに戻って牛の診療をしようか。それとも、軍医を続けようか。人間の解剖学もだいぶわかってきたし。でも——」
彼女は微笑んだ。
「どっちにしても、哺乳類はみんな同じです。たぶん」
◇ ◇ ◇
機関室で、オルロフ爺は一人、前方の線路を見つめていた。
彼のポケットには初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレート。ビールの小瓶はもう空だった。
「なあ、イワン二号。最後の走りだ。悔いのないように行こうぜ」
蒸気がシュウ、と長く漏れた。
「……わかってる。大丈夫だ。お前ならやれる。俺が保証する」
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づき、オーデル川の鉄橋が前方に見えてきた。
ここが、ベルリンへの最後の関門だった。川向こうに、ドイツの首都が広がっている。鉄橋は奇跡的に無事だった。爆撃で何度も狙われたはずなのに、まだレールが残っている。まるで運命が、この列車を待っていたかのように。
「元帥、オーデル川の鉄橋を通過します。この先は——」
「ベルリンだ」
ジューコフは窓の外を見つめた。地平線の彼方に、ベルリンの廃墟が広がっていた。かつてはヨーロッパ最大の都市の一つだったその街は、爆撃と砲撃とゾンビによって、今や見る影もなく崩れ落ちている。しかしその中で、まだ何かが輝いていた。発信源の研究所。あそこを破壊すれば、すべてが終わる。
線路は途切れ始めていた。瓦礫に埋もれ、レールが剥がれ、枕木が砕けている。しかしイワン二号は減速しない。もうここまで来たら、止まる理由などなかった。
「全員、聞け」
ジューコフの声が全車両に響き渡った。
「これより我々はベルリンに向けて最後の突入を行う。敵は発信源を守る最後の防衛線。ゾンビの数は、これまでの比ではないだろう。だが——」
彼の声は、これまでにないほど力強かった。
「ここまで来た。あと少しだ。この列車で、この仲間で、最後まで戦い抜く。全員、覚悟はいいな」
車内から、返事が上がった。
「ウラー!」
「フォルヴェルツ!」
「ウラー!」
言葉は違う。しかし魂は同じだった。
「よし——行くぞ」
イワン二号の汽笛が、ベルリンの廃墟にこだました。




