第2話「お前がやれ、ジューコフ」②
スターリンはゆっくりと言った。
「他の将軍たちに、希望を与えたくなかったのだ」
「希望、ですか」
「そうだ。『装甲列車でベルリンを叩けば終わる』そんな希望を将軍たちが持てば、ウラル防衛線の構築が遅れる。奴らはな、希望があるとそっちに賭けたがる。そして賭けに負ければ、何も残らん。私はな、ジューコフ、お前にはこの作戦を成功させてほしい。しかし同時に、失敗した場合の備えも捨てるわけにはいかない」
スターリンはパイプに火をつけた。煙が細く天井に昇っていく。
「もう一つ、言っておくことがある。今回の作戦は公式には存在しない。そして、お前は公式には『左遷』されたことになる。前線の視察中に行方不明になった、とでも発表する。将軍たちには、お前が失脚したように見える」
「了解しました。それで結構です」
「……怒らないのか」
「怒る理由がありません。左遷だろうが懲罰だろうが、線路の上ではどちらも同じことです。前にしか進めない」
ジューコフは委任状を折り畳み、軍服の内ポケットにしまった。娘の手紙と絵が入っているのと同じポケットだ。
「同志書記長。これは命令ですか」
「命令だ」
「では、質問は一つだけです」
ジューコフはスターリンの目をまっすぐに見た。
「失敗した場合、私の家族は……」
「私が保証する」
スターリンの返事は即答だった。ジューコフは小さく息を吐き、うなずいた。
「もう一つ、いいか」
スターリンは椅子の背にもたれかかり、天井を見上げた。
「お前の娘たちは何人だ」
「三人です」
「名前は」
ジューコフは少しだけ躊躇した。家族のことを軍務の場で話すのは彼の主義に反していた。しかし今だけは、違った。
「長女がエレーナ。次女がマルガリータ。三女が——」
「ナターシャだ」
スターリンが先に言った。ジューコフの眉がわずかに動く。
「知っていましたか」
「当然だ。お前が娘に宛てた手紙、検閲で全部読んでいる」
スターリンはほんの一瞬だけ、口元を緩めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かだったが、ジューコフには確かに見えた。
「いい父親だな、ジューコフ」
「……買い被りです」
「そうでもないさ」
スターリンは立ち上がり、窓辺に歩いた。カーテンを少し開け、クレムリンの外を見る。モスクワの街並みは灰色に沈んでいた。遠くの方で、疎開する市民たちのトラックの列が動いているのが見える。
「私はな、ジューコフ。これまで多くの決断をしてきた。そのうちのいくつかは間違っていただろう。しかし今回だけは、間違いたくない」
スターリンは振り返らなかった。
「お前なら……やれるか」
「やります」
ジューコフの返事は、迷いのない一語だった。
スターリンはそれ以上何も言わなかった。ただ軽く手を振り、退室を促した。ジューコフは敬礼し、扉に向かう。その背中に、スターリンの声が静かに届いた。
「できるだけ、多くの者を連れて帰れ。お前も、部下たちもな」
ジューコフは振り返らなかった。ただ立ち止まり、数秒の沈黙の後、言った。
「善処します」
扉が閉まった。
執務室に一人残されたスターリンは、机の上の写真をもう一度見た。若い兵士たちの笑顔。そして彼は、写真立てをそっと伏せた。
◇ ◇ ◇
控え室で待っていたコズロフは、ジューコフの顔を見た瞬間にすべてを理解した。
「許可が下りたんですね」
「表向きはな」
ジューコフは歩きながら内ポケットから委任状を出し、コズロフに手渡した。副官はそれを一目で読み終え、深いため息をついた。
「……正規の補給ルートなし。人員は余り物だけ。予算は『臨機応変に調達せよ』」
「つまり、ない」
「ええ、ありません」
二人は同時にため息をついた。そして顔を見合わせ、同時に小さく笑った。こんな無茶な作戦、笑うしかない。
「やれるか、コズロフ」
「『やれるか』ではなく『やります』とお答えするのが、私の仕事です。元帥が決めたなら、私はそれを実現するだけです」
「頼りにしている」
ジューコフはそう言うと、足早に廊下を進み始めた。コズロフが横に並びながら尋ねる。
「まずは何から?」
「人だ。列車はある。武器もある。だが、動かすのは人間だ」
「目星は?」
「何人か、ある」
ジューコフは廊下の窓から中庭を見下ろした。そこでは数人の兵士たちが、物資をトラックに積み込んでいる。彼らもまた、この狂った戦争に巻き込まれた者たちだ。
「まずは機関士だ。列車を動かせる奴が要る。聞いた話だが——」
「機関士なら、一人います」
コズロフが意外にも即答した。ジューコフが足を止める。
「セルゲイ・イワーノヴィチ・オルロフ。六十三歳。帝政時代から機関士をやっているベテランです。ただ——」
「ただ?」
「最近、一人息子を戦争で亡くしまして。いまはモスクワの場末の酒場で、毎晩ウォッカを浴びるように飲んで、『一人でドイツまで突っ込んでやる』と騒いでいるそうです」
ジューコフはしばらく無言で考え込んだ。そして、口元に笑みの影を浮かべた。
「いい。そういう奴のほうが、かえって頼りになる」
「そうですか?」
「悲しみを知っている人間は、死ぬことを怖がらない。必要なのは、その悲しみを前に向けることだ」
ジューコフは再び歩き出した。コズロフがその後を追う。
「それから、クラスノフ博士を呼んでくれ」
「プレゼンの続きですか? しかし、許可はもう——」
「許可は私の手にある。彼の知識が要る。ゾンビのメカニズム、電波の特性、研究所の推定座標。知っていることは全部吐き出させろ。それから」
ジューコフは一瞬だけ足を止めた。
「その前に、一つだけ確認しておきたいことがある」
「何でしょう」
「あの学者は……本当に役に立つか」
コズロフは少し考えてから、正直に答えた。
「予測不能な事態に強いタイプです。今回の作戦には、おそらく最適かと」
「理由は」
「予測不能なことしか起きないからです」
ジューコフは声を出さずに笑った。それはクレムリンの重い廊下で聞かせるには、あまりに人間らしい笑い方だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
モスクワの空が茜色に染まり始めた頃、ジューコフは一人で執務室に戻り、壁の地図の前に立っていた。モスクワからベルリンまで。二千キロメートルの直線。
途中にある街の名前を、彼は指でなぞりながら呟く。
「スモレンスク……ミンスク……ワルシャワ……ポズナン……」
一つ一つの街に、戦いがあった。奪い、奪われ、奪い返し、そしてまた奪われた。幾十万もの命が、この線の上で失われた。
そして今、その死者たちが立ち上がり、線の上を埋め尽くそうとしている。
ジューコフは机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。娘たちから届いた手紙だ。インクが滲み、折り目が擦り切れかけている。
「パパへ。今日、学校で戦争のことを習いました。先生は、パパみたいな人が国を守っているんだって言ってました。わたし、みんなに自慢しました。パパはとってもえらい人なんだよって。——ナターシャ」
ジューコフは手紙をそっと折り畳み、胸ポケットに戻した。
彼の手は震えていなかった。
「守るべきものがある限り……人間は前に進める」
それは自分に言い聞かせるような言葉だった。
窓の外では、モスクワの街に次々と灯りが点り始めていた。疎開が始まってもなお、人々は生きている。明日もパンを焼き、子供を抱きしめ、朝日を待つ。
その明日を、守るために。
ジューコフは軍帽を深く被り直し、部屋を出た。廊下の先で、コズロフが書類の束を抱えて待っていた。
「元帥、クラスノフ博士が到着しています。かなり興奮している様子で——」
「いつものことか」
「ええ、いつものことです。あと、例の『酒場の機関士』も今夜、いつもの店にいるそうです」
「よし。まずは学者に会う。そのあと、酒場だ」
二人は足早に廊下を進んだ。
彼らの背中を見送るように、壁に掛けられたスターリンの肖像画が、夕陽を受けて不気味に輝いていた。
ベルリンまで、二千キロ。
旅は、まだ始まってもいなかった。




