第2話「お前がやれ、ジューコフ」①
クレムリンの朝は重かった。
十一月のモスクワ。鉛色の雲が低く垂れ込め、雪になるか雨になるか決めかねているような中途半端な寒さが、石造りの壁に染み込んでいた。ジューコフは黒いジルの後部座席で、軍帽のつばを指でなぞりながら窓の外を見ていた。モスクワ市民の姿はまばらだった。すでに疎開が始まっている。街から人が消えていく。
隣に座るコズロフ副官が、昨夜ほぼ徹夜で仕上げた書類の束を膝の上で整えていた。
「同志元帥、クラスノフ博士はすでに到着しています。控え室で待機させていますが——」
「プレゼンの準備はできているのか」
「それが……『準備とは、不確定要素を排除することです。今回の事象は不確定要素そのものですから、準備も何もありません!』と」
ジューコフは鼻を鳴らした。笑っているのか、呆れているのか、コズロフにも判断がつかなかった。
「あの学者は、使えるか」
「正直……わかりません。しかし、彼の分析だけは正確です」
「それでいい」
車がクレムリンの門をくぐった。
◇ ◇ ◇
スタフカ(最高総司令部)会議室は、重苦しい沈黙に包まれていた。
長方形の大テーブルを囲むのは、ソ連軍の最高幹部たち。陸海軍の将帥、政治局員、国家保安人民委員部の代表。どの顔にも疲労の色が濃い。普段ならば「前進」「反攻」「勝利」の三語で埋め尽くされるこの部屋が、今日は違った。前線が崩壊している。敵が消えた。そしてその代わりに現れた「何か」が、すべてを飲み込みつつある。
議長席に座るヨシフ・スターリンは、パイプをくわえたまま、報告を聞いていた。彼の顔色は悪い。頬がこけ、目の下の隈が深い。しかしその目だけは、まだ燃えていた。
「——以上が、現時点での戦況です」
報告を終えた参謀総長が、汗を拭いながら席に着いた。
「死者の数は」
スターリンの声は静かだった。だが、その静けさこそが恐ろしい。
「集計中です。しかし少なくとも三十万——」
「集計中ではない。数字を言え」
「四十万以上と推定されます。西方方面軍のほぼ全戦力が——」
スターリンはパイプを机の上に置いた。その音だけが、静寂の中でやけに大きく響いた。
「状況は理解した」
スターリンはゆっくりと立ち上がった。
「政府機能をウラル以東に移転する。モスクワ市民の疎開は段階的に実施。軍はウラル山脈に最終防衛線を構築し、そこで敵を——」
「敵ではありません」
その声はテーブルの端から上がった。
将軍たちの視線が一斉にそちらに向いた。ジューコフは立ち上がってすらいなかった。椅子に座ったまま、両腕を組み、スターリンをまっすぐに見上げている。
「同志ジューコフ、発言の許可は——」
「状況が状況です。形式的な許可を待っている時間はない」
ジューコフの声は重く、しかしよく通った。部屋の隅々まで、彼の言葉が沈殿していく。
「あれは敵ではありません。敵なら戦えます。敵なら倒せます。敵なら交渉もできる。しかしあれは単なる現象です。地震や洪水と同じだ。防いでも防いでも、発生源を断たなければ意味がない」
「ではどうするというのだ、ジューコフ」
スターリンの目が細められた。試すような目だ。
ジューコフはようやく立ち上がり、壁際の地図の前に歩いた。将軍たちの視線がその背中に集中する。
「発信源があります。鹵獲したドイツ軍の極秘文書によれば、ベルリン郊外の研究所から発信される特殊周波数の電波が、死体を遠隔操作しています。この電波を止めれば……すべてのゾンビが停止する」
「鹵獲文書だと? その信憑性は」
「それだけではありません」
ジューコフはコズロフに目配せした。副官が素早く資料を配り始める。
「我が国の科学者、クラスノフ博士が独自に分析したデータです。ゾンビの活動範囲には明確な指向性がある。移動方向、活動密度、反応速度、すべてがベルリン方面から放射状に広がるパターンを示している」
ざわめきが起こった。ある将軍が声を上げる。
「クラスノフ? あのトンデモ学者か。科学アカデミーを追い出された——」
「だからこそです」
ジューコフは将軍の言葉を遮った。
「アカデミー主流派は唯物論の枠組みでしか物事を見ない。しかし今回の現象は、唯物論だけでは説明できない。クラスノフはそれを認め、枠組みの外側から分析した。鹵獲文書の記述と、彼の仮説。二つが別々のルートから導き出され、同じ結論に至った。これを偶然と言うなら、私はそれ以上の偶然を私は知らない」
会議室が静まり返った。
スターリンだけが、ジューコフをじっと見つめていた。その視線には奇妙な熱が宿っていた。
「それで、ジューコフ。お前は何を提案する」
「装甲列車を出します。モスクワからベルリンまで、直線距離で約二千キロ。途中補給のための停車は最小限に抑え、全速力で突破します。研究所に到達次第、発信源を破壊する」
「二百万人の敵陣を二千キロ突破しろと?この状況で、たかが一編成の列車が——」
「それ以外に、手はありますか」
ジューコフの言葉に、反論はなかった。
ウラル線での防衛? 時間稼ぎに過ぎない。ゾンビは止まらない。電波が届く限り、死者は際限なく蘇り続ける。政府が疎開しようが、国民が逃げようが、最終的に人類が追い詰められるのは時間の問題だ。それに気づいていない将軍たちではない。しかし、認めたくないのだ。すでに「戦争」が終わっているということを。
スターリンは長い沈黙の後、口を開いた。
「却下だ」
将軍たちから安堵の吐息が漏れた。
「本会議ではその案を却下する。政府はウラル移転を進める。軍は防衛線に集中せよ。以上だ」
スターリンは立ち上がり、パイプを手に取った。退室の合図だ。将軍たちが次々と席を立つ。
ジューコフだけが、動かなかった。地図の前で腕を組んだまま、まっすぐに前を見ている。その視線の先には、自分が引いた一本の線があった。
「……ジューコフ」
スターリンが去り際に、彼の横を通り過ぎながら、ほとんど囁くような声で言った。
「あとで、私の執務室に来い」
◇ ◇ ◇
クレムリンの廊下は、やけに長く感じられた。
ジューコフは一人で歩いていた。コズロフは控え室に待機させている。スターリンとの一対一の会談に、副官は不要だ。
スターリンの執務室は、会議室とは別の建物にあった。重い木の扉をノックすると、中から短く「入れ」という声が返ってきた。
部屋の中は薄暗かった。カーテンが半分だけ開けられ、十一月の弱々しい陽射しが細く差し込んでいる。スターリンは机の向こうに座っていた。机の上には書類の山と、半分になった紅茶のカップ。そして一枚の写真。何かの式典で撮られたものらしい。若い兵士たちが笑っている。
「座れ、ジューコフ」
ジューコフは勧められるままに椅子に腰を下ろした。二人の間には重い沈黙が横たわっている。
スターリンが先に口を開いた。
「先の会議で、なぜお前の案を却下したか、わかるか」
「はい」
「言ってみろ」
「もし『装甲列車でベルリンを強襲する』という作戦が公式に承認されれば、そして失敗すれば、ソ連軍の最高司令部が、非常時に愚かな賭けに出たことになります。政府の権威が失墜します。表向きは『堅実な防衛計画』を採択し、裏で私にやらせる。そういうことではありませんか」
スターリンは口元をわずかに歪めた。笑っているのかどうか、相変わらず判別がつかない表情だった。
「違う」
「……違う、ですか」
「半分はな」
スターリンは机の引き出しから一通の書類を取り出した。すでに署名がしてある。インクの色は真っ黒で、つい先ほど書かれたばかりのようだった。
「『特務装甲列車第1号の軍事作戦に関する全面委任状』。作戦の目的、手段、経路、参加人員。すべてお前の裁量に一任する。最高総司令官、ヨシフ・スターリンの署名入りだ」
ジューコフは文書を受け取り、一読した。
「これは……会議の前に?」
「昨夜のうちに用意していた」
ジューコフは顔を上げた。スターリンは机の上の写真を見つめていた。若い兵士たちの笑顔。彼らが今どこにいるかは、誰にもわからない。
「お前の案を却下した本当の理由はな、ジューコフ……」




