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第1話「前線が死んだ日」

B級映画のノリで、生暖かい目で見守って頂くと幸いです。

それとジューコフ元帥には、御免なさいをしておきます!

夜だった。


スモレンスク方面の最前線。凍てつく十一月の闇の中で、ソ連軍の塹壕は静寂に包まれていた。いつもなら夜間でもドイツ軍の間欠的な砲撃が続くはずなのに、今夜は奇妙なほどに静かだった。風が凍った泥の上を這い、有刺鉄線がかすかに震える音だけが聞こえる。


歩兵のパーヴェルは、凍えた両手に息を吹きかけながら、前方の闇を見つめていた。十九歳。モスクワから来たばかりの補充兵だ。彼がこの塹壕に配属されてまだ二週間も経っていない。


「静かすぎる」


隣の中隊長が煙草をもみ消しながら呟いた。古参兵で、いつもはどんな状況でも冗談を言う男だった。だが今夜は違った。


パーヴェルは銃眼から身を乗り出し、闇に目を凝らした。最初は何も見えなかった。吹雪が視界を遮り、月明かりさえも覆い隠していた。しかし、違和感があった。風の音に混じって、別の音がする。足音だ。それも一人や二人ではない。


「……誰か来る」


パーヴェルの声は掠れていた。中隊長も銃眼に目を当てる。


一人の人影が吹雪の中から現れた。ゆっくりと、確かな足取りでこちらに向かって歩いてくる。ドイツ軍の軍服を着ている。しかし奇妙だった。両手を上げていない。武器も持っていない。降伏の意思表示とは明らかに違う。ただ、歩いている。


「止まれ!止まらないと撃つぞ!」


警告は無視された。人影は止まらない。


銃声が闇を裂いた。パーヴェルではなく、隣の中隊長が撃ったのだ。銃弾は人影の胸に命中した。はずだった。しかし人影は倒れない。わずかによろめいただけで、また歩き出す。


「なんだ……?」


二発目。腹に命中。それでも止まらない。


三発目。肩。倒れない。


パーヴェルの手が震えた。指が引き金にかかる。しかし撃てなかった。その人影が近づいてくるにつれて、彼は見てしまったのだ、その顔を。


顔の半分が崩れていた。頬の肉が削げ落ち、白い骨が露出している。左目はもはや眼球ではなく、ただの黒い穴だった。そして右目は、まだ動いていた。何かを見ている。生者の匂いを感じ取るように、ぎょろりと動いてパーヴェルの方を向いた。


「ひっ……」


その時、中隊長が叫んだ。


「頭だ!頭を撃てッ!」


しかし遅かった。


その人影の背後から、別の人影が現れた。五人。十人。何人だ? いや、数えること自体がもう無意味だった。地平線の全体が、動いていた。数百、数千の死者たちが、吹雪の帳を破って押し寄せてくる。ドイツ軍の軍服、ソ連軍の軍服、あるいは民間人の衣服。死の大地が、それ自体の意思を持って迫ってくる。


塹壕のあちこちで銃声と悲鳴が上がった。しかし死者たちは止まらない。胸を撃たれても、腹を撃たれても、脚を吹き飛ばされても、這って進む。そして、最初の一匹が塹壕に雪崩れ込んだ。


パーヴェルはその顔を見た。ついさっきまで隣で煙草を吸っていた戦友の顔だった。しかし違う。目が、人間の目じゃない。


それが彼の最後の思考だった。


噛まれた。首の肉を食いちぎられる音が、自分の体の中で響くのを聞いた。


パーヴェルの手から小銃が滑り落ちた。


塹壕は、死者で埋め尽くされた。


◇ ◇ ◇


「第3中隊、連絡途絶!」


通信兵の叫び声が、薄暗い地下壕に響いた。壁に貼られた巨大な戦術地図の前で、第112狙撃師団の師団長ニコライ・ボロージン少将は、冷たい紅茶の入ったマグカップを握りしめていた。五十二歳。疲れ切った顔に深い皺が刻まれている。彼は昨夜から一睡もしていなかった。


「応答を続けろ」


「応答なしです!第5中隊も、つい先ほど——」


通信が次々と途絶えていく。無線機からは雑音だけが流れる。さっきまで「塹壕に侵入された」「数が多すぎる」「これは何だ」と叫んでいた声が、一つ、また一つと消えていく。


「第1大隊本部——応答願います——第1大隊本部——」


通信兵の声が震え始めた。


地図の上で、前線を示す赤いピンが一本ずつ意味を失っていく。ボロージン少将は額の汗を拭い、決断を下した。


「全軍、後退。防衛線を後方5キロに再構築——」


彼の命令は最後まで届かなかった。


地下壕の外から、悲鳴が聞こえてきた。それも一人二人ではない。基地全体を包み込むような、集団の絶叫。


ボロージン少将は拳銃を手に取り、出入り口に向かった。階段を駆け上がり、鉄の扉を開ける。


彼が見たものは、地獄だった。


司令部の建物の周囲を、死者たちが取り囲んでいた。兵士たちが必死に応戦しているが、倒しても倒しても次々と押し寄せてくる。そして最も恐ろしいことに、倒したはずの兵士たちが、数分後に立ち上がり始めていた。


「撤退——」


その言葉を最後に、ボロージン少将の意識は途絶えた。


死体の山が、彼の上に崩れ落ちた。


地下壕の無線機だけが、誰もいない部屋で雑音を吐き続けていた。


「——第112師団司令部、応答なし。第112師団、壊滅と推定」


◇ ◇ ◇


その通信を聞いていた男がいた。


モスクワ近郊の臨時司令部。壁一面に広がる巨大な戦況図の前で、ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ元帥は、両腕を組んで立っていた。軍服は皺ひとつなく、勲章は磨き抜かれている。しかしその顔には、ここ数日で深まった疲労の色が刻まれていた。


「報告を続けろ」


ジューコフの声は低く、しかしよく通った。


「はい。西方方面軍、第19軍団壊滅。第22軍団、通信途絶。第29軍団——」


若い参謀の声が震えている。彼はレポートを読み上げながら、時折顔を上げてジューコフの表情を窺った。しかしジューコフの顔からは何も読み取れなかった。


「スモレンスク方面、第112師団を含む三個師団が壊滅。指揮系統、完全に消失」


「ドイツ軍側の状況は」


「は……?」


参謀は一瞬言葉を失った。今さら敵軍の状況など、どうでもいいのではないか。そう思ったのだ。しかしジューコフの目は本気だった。


「ドイツ軍戦線も同様に崩壊していると推測されます。鹵獲した通信記録によれば、ドイツ中央軍集団も司令部ごと壊滅」


「推測ではない。事実を言え」


「……はい。事実です。ドイツ軍も壊滅しています」


ジューコフはゆっくりと息を吐いた。


かつてこの戦争には「敵」がいた。ドイツ国防軍、ナチス親衛隊、装甲師団——倒すべき相手が明確に存在していた。しかし今、その敵すらも消え去ろうとしている。代わりに現れたのは、敵も味方もなく、ただすべての生者を貪り尽くそうとする「死」そのものだった。


ジューコフは無言で地図に近づき、机の上に転がっていた定規を手に取った。透明なプラスチックの、事務用の簡素なものだ。


彼は定規を地図の上に置いた。モスクワ。その地点からまっすぐ西へ、スモレンスク、ミンスク、ワルシャワ、ポズナン、そして、ベルリン。


線を引く。まっすぐ。約二千キロメートルの直線を。


参謀たちは息を呑んでそれを見守った。誰もが理解した。ジューコフがこの線を引く時、彼はすでに何かを決断しているのだと。


「同志元帥」


副官のウラジミール・コズロフが静かに声をかけた。彼だけが、ジューコフの考えていることを察していた。


「何をお考えですか」


ジューコフは定規を机の上に置き、振り返らなかった。ただ地図の上の直線を見つめながら、低く言った。


「電波だ」



「先日、情報部が鹵獲したドイツ軍の文書にあった。『発信源の破壊により全停止』。断片的だが、これがこの現象の核心だと読める」


コズロフは眉を上げた。


「しかし同志元帥、文書の断片だけでは——」


「それだけじゃない」


ジューコフは机の上に積まれた報告書の束から、一枚の手書きのメモを引き抜いた。ボロボロの紙に、走り書きの文字が並んでいる。署名は「アレクセイ・クラスノフ」。ソ連科学アカデミーに所属する、しかしアカデミー主流派からは「トンデモ学者」と冷笑されている男だった。


「こいつがまとめた分析だ。ゾンビの活動範囲には明確な指向性がある。すべて特定の方角から発信される何らかの信号に反応している。クラスノフはそう推測している。その方角は」


ジューコフは地図の上のベルリンを指で叩いた。


「ここだ」


静寂が部屋を支配した。


鹵獲文書だけでは確証に欠ける。クラスノフの仮説だけでは信用に足りない。しかし、その二つが重なった時、ジューコフの中でパズルのピースが音を立てて噛み合ったのだ。


「鹵獲文書の記述と、このトンデモ学者の仮説が一致している。偶然か?」


「……偶然ではないかと」


「私もそう思う」


ジューコフは初めて微かに笑った。それは不敵な、戦場で部下たちを奮い立たせる時に見せるものと同じ笑みだった。


「同志元帥、しかし……根拠としては不十分です。上の承認は——」


「取るさ」


ジューコフは腕を組み、地図の上の直線を睨みつけた。


その直線の先には、何千、何万という死者たちの群れがいる。しかしそれ以上に、直線の先には、この狂気を終わらせる唯一の希望がある。


その時、通信兵が飛び込んできた。


「同志元帥!モスクワから至急電報です!」


ジューコフは電文を受け取った。数行の簡潔な文章を、彼は素早く読み終えると、コズロフに手渡した。


「スタフカ臨時会議。明朝六時。クレムリンだ」


「……行かれますか」


「無論だ」


ジューコフは軍帽を手に取り、深く被った。その目はすでに戦場を見据える指揮官の目だった。


「明朝までに、装甲列車の使用許可を申請する書類を用意しろ。それから——」


彼はコズロフに向き直った。


「あの学者を呼べ。クラスノフだ。プレゼンの時間を与える」


「は……? 司令部に、ですか?」


「そうだ。スタフカの連中を説得するには、データが要る。あの男の仮説を、きちんとした形でな」


ジューコフは地図の前にもう一度立ち、自分が引いた直線を指でなぞった。


モスクワからベルリンまで。


誰が何と言おうと、この線の上を走る列車が、この戦争の最後の一手になる。


「明日の会議で、すべてを決める」


ジューコフの声には、一片の迷いもなかった。


窓の外では、東部戦線からの負傷兵を乗せたトラックの列が、夜の闇の中をモスクワへ向かって続いていた。その遥か彼方、西の方角に、死者たちの大地が広がっている。


そしてその大地をまっすぐに貫く、一本の直線。


夜明けまで、あとわずかだった。

歴史ガチ勢の方!何卒お許しを!

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