第3話「棺桶急行、乗客募集中」①
モスクワの夜は、酒場の灯りでかろうじて形を保っていた。
街中からは人が減り、通りを行くのは軍用トラックばかり。それでも酒場だけは生きていた。いや、酒場こそが最も生きている場所だった。負傷兵、後方勤務の将校、疎開し損ねた労働者、そして戦争で息子を失った老機関士。
「イワンがいればなァ!」
グラスがカウンターに叩きつけられた。ウォッカが飛び散る。
「イワンさえいれば、俺は一人でだって……ドイツのど真ん中まで……機関車で突っ込んで……」
声の主は、六十過ぎの小柄な老人だった。禿頭にしわだらけの顔。ツナギは油と煤でテカテカで、ウォッカの染みがいくつも重なっている。周囲の客は、もうこの老人の演説に慣れっこだった。誰も振り向かない。
「息子の仇だ!アレクセイを返せ!ドイツのクソども、全員ひき殺して……」
「機関士か」
その声は、老人のすぐ後ろから聞こえた。
老人、セルゲイ・イワーノヴィチ・オルロフは、のろのろと振り返った。そこには、軍服を着た巨漢が立っていた。勲章だらけの胸。角ばった顎。充血した目。そして、その目はまっすぐにオルロフを見ていた。
「そのイワンとやらは、どこにいる」
オルロフは焦点の合わない目で、巨漢の顔をじっと見た。数秒かけて、相手が誰だか認識した。
「……ゲオルギー? ゲオルギー・ジューコフ?」
「そうだ」
「はッ。俺は酔ってるのか? 元帥サマが、なんでこんなボロ酒場に」
「機関士かどうかを聞いている」
「そうだよ。文句あるか」
「いくつだ」
「六十三だ。だがな、若い奴には負けん。機関車のことなら——」
「俺の列車を運転しろ」
オルロフの手が止まった。ウォッカの入ったグラスを持ち上げようとして、途中で動きを止めたのだ。酒場の喧騒が、なぜか遠くに聞こえた。
「……どこまでだ」
「ベルリンまでだ」
沈黙。
「……往復か?」
その言葉に、ジューコフは微かに口元を歪めた。笑い方というより、それは獲物を見つけた猛獣の表情に近かった。
「片道だ。帰りの切符は、現地で調達する」
オルロフはグラスを置いた。ゆっくりと、丁寧に、まるで壊れ物を扱うように。
「……俺のイワンはな、もういないんだ。先月、部品取りに解体された。それから俺は——」
「新しいイワンをやる」
オルロフの目が、初めて焦点を結んだ。
「……なんだと?」
「特務装甲列車第一号。通称『スターリンの鉄槌』。機関車の名は、まだない。お前がつけろ」
オルロフはカウンターの椅子から立ち上がった。足元はふらついていたが、目だけはもう酔っていなかった。
「いいだろう」
老機関士は、ボロボロのツナギのポケットからくしゃくしゃの紙幣を数枚取り出し、カウンターに叩きつけた。
「ただし条件がある。燃料は俺が選ぶ。機関の整備も俺がやる。それと」
「それと?」
「ウォッカは経費だ。いいな」
ジューコフは初めて、声を出して笑った。
「好きにしろ」
◇ ◇ ◇
さらにその夜。軍の留置所。
エカテリーナ・モロゾワ。通称「カチューシャ」は、独房の壁に向かって座っていた。
金髪のショートボブ。そばかすだらけの童顔。口元にはいつも薄い微笑みが浮かんでいる。それが逆に不気味だった。笑っているのに、目がまったく笑っていないのだ。
彼女は右手でピストルの形を作り、壁に向かって狙いをつけていた。
「……ざんねん。あと三センチ左だったら、十ポイントだったのに」
何の話をしているのか、誰にもわからなかった。誰も知らなかった。彼女が頭の中で何を撃っているのかを。
「モロゾワ一等兵」
看守が鉄格子の向こうから声をかけた。
「面会だ」
「面会?」
彼女はゆっくりと振り返った。独房の前に立っているのは、見たこともない巨漢の軍人と、眼鏡をかけた神経質そうな副官。巨漢の方は、彼女をじっと見下ろしていた。
「射撃の腕は確かか」
いきなりの質問。カチューシャは小首をかしげた。
「どのくらい?」
「千メートル先の看板の文字が読めるか」
「読めるよ。撃ち抜けるよ」
「動く目標は」
「好き。動いてるほうが燃える」
ジューコフは隣にいる副官のコズロフをちらりと見た。コズロフは手に持った書類をめくる。
「……戦績は四十人以上。ただし——」
コズロフは続きを読むのをためらったが、ジューコフが目で促した。
「味方にも発砲した疑いがあります。スターリングラード戦にて、噛まれた味方を『苦しまないように』と、その……頭を撃ち抜いた、と」
カチューシャは微笑んだままだった。
「だって、ゾンビになっちゃったら敵でしょ? それとも味方の顔したゾンビに噛まれて死にたかった?」
静寂。
「お前、ゾンビに罪悪感はあるか」
ジューコフの問いに、彼女はきょとんとした顔をした。
「なにそれ?」
「あるか、ないか」
「ないよ。ぜんぜん。むしろ——」
彼女は立ち上がって鉄格子に近づいた。その目が、一瞬だけ本当に輝いたように見えた。
「無限にいるんでしょ? ゾンビ。全部撃っていいってことでしょ? 最高じゃん!」
ジューコフは振り返り、コズロフに言った。
「連れて行け」
「……よろしいんですか」
「ゾンビに罪悪感は不要だ」
◇ ◇ ◇
翌日。モスクワ郊外、再編中の歩兵部隊駐屯地。
テントの前で、兵士たちが輪になって座っていた。泥だらけの軍服、疲れ切った顔。しかし彼らは笑っていた。いや、笑おうとしていた。
「——で、その時、俺は言ったんだ。『手榴弾をどこに置いたか忘れた』ってな!」
指揮官のヴィクトル・グロモフ大尉が、満面の笑みでオチを言った。
沈黙。
誰も笑わなかった。
「……今のはジョークだ」
さらに沈黙。
副官のオレスト・キリレンコ少尉。長身で細身、コサックの刺繍入りマフラーを巻いた若い男が、無表情で言った。
「大尉。そのジョーク、四回目です。四回とも誰も笑ってません。そろそろ諦めたらいかがです」
「うるさい、キリレンコ。笑いは回数を重ねるごとに深まるんだ」
「新しい概念ですか」
その時、駐屯地の入り口にジープが止まった。降りてきたのは眼鏡の痩せた男。コズロフ副官。彼は両手にウォッカの箱を抱えていた。それも一箱や二箱ではない。後部座席にも積んである。
「グロモフ大尉ですね」
「そうだが……あんたは?」
「ジューコフ元帥の副官、コズロフです。単刀直入に言います。部隊ごと、貸してもらえませんか」
グロモフは目をしばたたかせた。
「……何に使う?」
「ベルリンまで」
グロモフは部下たちを見た。部下たちもグロモフを見た。全員が同じ顔をしていた。「またこの大尉のジョークか?」という顔だ。
「……笑えねえジョークだな」
「ジョークではありません」
コズロフはウォッカの箱を一つ、グロモフの前に置いた。
「これは、あくまで……交渉材料です」
グロモフは箱を開け、中のウォッカ瓶を一本取り出した。ラベルを見て、軽く口笛を吹く。
「本物だ。どこで手に入れた」
「元帥の個人ルートです」
「……元帥のプライベートウォッカか」
グロモフはコルクを抜き、一口飲んだ。目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そして部下たちを見渡した。
「お前たち、どうする」
部下たちは顔を見合わせた。その中の一人が言った。
「大尉が行くなら」
「俺が行くと言ったら?」
「……行きますよ。どうせここにいても死ぬだけだ。それなら——」
「走りながら死んだほうがマシか」
グロモフは立ち上がった。泥だらけの軍服を叩き、ウォッカ瓶をコズロフに返す。
「決めた」
「条件は?」
「三つだ。一、部下を置き去りにしない。二、俺が先頭で死ぬ」
グロモフは真顔で言った。
「三、俺のジョークに、誰か一人ぐらい笑え」
コズロフは微かに口元を緩めた。
「三つ目は、難しいかもしれません」
キリレンコが横からすかさず言った。
「不可能です」
「うるさい!」




