第16話:最後の停車駅③
列車に戻ったグロモフの顔は、蒼白だった。
「元帥。操車場の状況を、操車場は、無傷です。貨車も弾薬庫も、そのまま——」
「偵察隊はどうした。キリレンコは」
グロモフは答えなかった。いや、答えられなかった。彼はただ、後方の操車場を見つめていた。その方向から聞こえていた戦闘音が、先ほど途絶えた。それが何を意味するか、グロモフは痛いほど理解していた。
「……そうか」
ジューコフはそれだけ言って、しばらく沈黙した。彼の拳が、無意識に握りしめられる。
「死んだのか」
「俺が、俺が命令したんです。時間を稼げと——」
グロモフの声は震えていた。指揮官として、彼は何度も部下の死を見てきた。今回だけが特別なわけではない。しかしそれでも、キリレンコの死は違った。彼はただの副官ではなかった。自分のジョークにツッコミを入れ、それでいて誰よりも信頼できる、唯一無二の戦友だった。
「大尉」
ジューコフの声は、驚くほど静かだった。
「お前の部下は、任務を遂行した。お前の命令で、お前の部下が、全員を生かすために死んだ。指揮官として、誇れ。責任は、私が取る」
「しかし——」
「しかし、ではない。泣くのは後にしろ。今は——」
ジューコフは前方を見据えた。
「前に進む時だ」
グロモフは拳を握りしめ、それからゆっくりと開いた。彼は泣かなかった。泣けなかった。指揮官が泣くのは、すべてが終わった後だと、彼は知っていた。それはキリレンコにも言われたことだった。そしてキリレンコは、まだ戦いの途中で散っていったのだ。だから今は泣けない。
「……了解」
彼は顔を上げた。まだ戦いは終わっていない。
◇ ◇ ◇
操車場の制圧は、迅速に行われた。
キリレンコとカチューシャが稼いだ時間の間に、グロモフが持ち帰った情報を基に、ジューコフの本隊は手際よく動いた。キリレンコが足止めしたゾンビの残存を掃討しつつ、貨車と弾薬庫を確保する。フィリポフとベッカーはタンク貨車の状態を確認し、フォン・シュタインベルクは戦車砲弾の在庫を確認した。
「88mm砲弾、あります! 榴弾が三十発、対戦車榴弾が二十発! それから75mm砲弾も——」
ハルトマン軍曹の報告に、フォン・シュタインベルクは深く息を吐いた。これで戦える。だが彼の視線は、操車場の片隅で佇むもう一人の男に注がれた。腰のサーベルを握りしめ、燃え尽きた戦場の跡をただ見つめている、ソ連の歩兵指揮官。その背中は、言葉にならない何かを背負っていた。
「……グロモフ大尉」
「何だ、少佐」
「副官を、失ったと聞いた」
グロモフは答えなかった。ただ廃墟となった操車場を見つめている。爆心地とおぼしき場所には、まだ黒い煤がくすぶっていた。
「私は、部下を多く失ってきた。指揮官として、あらゆる死を経験してきた。しかし副官の死は、ただの部下の死とは何かが違う。理解できる」
「何が言いたい」
「今は何も言わない。ただ——」
フォン・シュタインベルクは、グロモフの隣に立った。
「いつか戦いが終わったら、その時は、私が聞く。あなたの副官が、どんな男だったかを」
グロモフはフォン・シュタインベルクの顔を見た。青い目だった。しかしその目に宿っているのは、かつて敵として見ていた時の冷たさではなく、同じ指揮官としての重みと、共有された喪失の痛みだった。
「……コサックだった。いつも笑っていて、クソ真面目に剣を振り回して、それから——」
彼は、初めて微かに笑った。
「俺のジョークに、一回も笑わなかった」
「それは残念だ」
「ああ。本当にな」
二人は並んで、しばらく黙って操車場を見つめていた。失ったものは大きい。しかし獲得したものも大きかった。弾薬、食料、そして戦い続けるための全て。そして彼らは、その代償を決して忘れないだろう。
◇ ◇ ◇
操車場の隅で、工兵たちはタンク貨車の改造に取りかかっていた。
フィリポフはクズネツォフの手帳を開き、無人走行の仕組みを確認していた。アクセルを固定する装置、線路の分岐を強制的に切り替える機構、そして爆薬の起爆装置。それらすべてを一夜で仕上げなければならなかった。
「……できますね」
フィリポフが呟くと、隣でベッカーがスパナを回しながらうなずいた。
「できるできないではない。やるかやらないかだ。この列車に乗ってから、それで何度も——」
「何度も無茶をしてきました」
「そうだ。だから今回も、やるだけだ」
「クズネツォフ中尉が生きていれば、もっと上手くできたと思います」
「その中尉は、お前にこれを託した。それで十分だ」
フィリポフは手帳を胸にしまい、工具箱を手に取った。
「……そうですね。やります」
二人の工兵は、黙々と作業を続けた。火花が散り、ハンマーが打ち鳴らされ、溶接の青白い光が夜の闇を照らし出す。貨車の連結器、車軸、レバー、一つひとつが確実に仕組みとして組み上がっていく。
◇ ◇ ◇
タンク貨車の前。イヴァン神父とクラウス牧師、二人は巨大なタンクの前に並んで立っていた。
タンク貨車の容量は数千リットル。すでに給水ポンプで満たされた水が、タンクの中で静かに揺れている。この水すべてを聖水に変える。二人の祈りで。二人の信仰で。
「準備はよろしいですか、牧師」
「はい。神父」
イヴァンは十字架を掲げた。
「主よ——」
クラウスもまた、手を広げて祈り始めた。
二人の祈りは、かたちは違った。イヴァンは古い教会スラヴ語で、クラウスはドイツ語の聖書の言葉で。しかし祈りの魂は、同じだった。死者の魂を鋼鉄の檻から解放し、永遠の安息を与え給え、という祈り。
「——アーメン」
「——アーメン」
二人が同時に祈りを終えた瞬間、タンクの中の水が、一瞬だけ、青白く輝いたように見えた。ミンスクで見たのと同じ光。しかし今回はもっと強く、もっと確かな輝きだった。
「……これは」
クラウスが息を呑んだ。
「見えましたか」
「はい。確かに」
「同志コミッサロフに見せたいものです。彼はきっと『集団催眠だ』と言うでしょうが」
クラウスは声を出さずに笑った。
「私はあなたの信仰に、深く敬意を表します。正教会の司祭がこれほどの力を持つとは」
「宗派は関係ありません。信仰の強さだけが、結果を決めます。そして——」
イヴァンはクラウスの肩に手を置いた。
「あなたがいたからこそ、これだけの聖水ができた。感謝します」
二人は固く握手を交わした。宗派を越えた祈りが、今、一両のタンク貨車を、この世で最も強力な対幽霊兵器へと変えたのだ。
◇ ◇ ◇
その夜遅く。ジューコフは一人、指揮車両の窓辺に立っていた。
彼の手には一枚の紙。今日の戦死者のリストだった。
「カチューシャ・エカテリーナ・モロゾワ一等兵。キリレンコ・オレスト・タラソヴィチ少尉。アントン・ペトローヴィチ・コヴァレンコ二等兵。フリードリヒ・バウアー伍長。パウル・マイアー上等兵——」
コズロフが読み上げる名前のリスト。その中に、キリレンコの名前があった。そしてカチューシャの名前も。彼女の遺体は見つかっていない。
アントンの名前もあった。彼は操車場で弾薬庫を守るために戦い、ゾンビに噛まれて致命傷を負った。しかし彼は死ぬ前に、ボリスに向かって言った。
「なあ、ボリス……俺、最後にいいことしたかな」
「……ああ」
「それなら……いいや。ドイツ兵にも、パン、やれたし」
彼は笑って、目を閉じた。享年二十二。モスクワ出身の補充兵で、怖がりでおしゃべりで、ゾンビが来るたびに震えていた彼は、最後に勇敢だった。その死を看取ったボリスは、スターリングラード以来となる涙を流した。戦友のために涙を流したのは、彼にとって数年ぶりのことだった。
「全員、勇敢に戦った。記録しろ」
「了解」
ジューコフは窓の外の闇を見つめた。遠くに、ポズナンの廃墟が影のように浮かんでいる。その向こうに、ベルリンがある。そこに辿り着くまでに、あと何人犠牲になるだろう。それは誰にもわからない。
「……娘たちよ」
彼は胸ポケットの手紙に手を当てて、静かに呟いた。
「父さんは、もう少しだけ、戦う」
彼は手紙をしまい、地図の前に戻った。
◇ ◇ ◇
深夜。操車場の機関庫で、オルロフ爺は一人、操縦席に座っていた。
彼の手にはウォッカ瓶がない。代わりに、鹵獲したビールの瓶が握られている。彼は最初、「ビール? ウォッカじゃねえのか」と不満を言った。しかし一口飲んで、目を丸くした。
「……悪くない」
「でしょ? それはバイエルンの——」
バウマンが誇らしげに言いかけて、フォン・シュタインベルクに軽く制された。それでも機関室には、ほんの少しだけ笑い声が広がった。ビールを囲んで、ロシア人とドイツ人が同じものを飲む。それは、この旅で初めての光景だった。しかし全員が集まっているわけではなかった。キリレンコの席は空席で、カチューシャがいつも座っていた屋根の上も無人だった。戦死者たちの不在が、この小さな宴の静かな影となっていた。
「なあ、イワン二号」
オルロフ爺は計器盤に話しかけた。
「幽霊列車がまた来る。今度は完全に倒す。そのための準備はできた。聖水も爆薬もある。機関士として、無人列車を走らせるのは気が進まねえが——」
彼はビールをもう一口。
「クズネツォフなら、きっとこう言うだろうな。『走らせるために走らせるんです』って。あいつの理屈はいつもそうだった」
彼のポケットで、製造プレートがチャリ、と鳴った。オルロフ爺は口元を歪め、ビールの瓶を掲げた。
「見てろよ、クズネツォフ。今度はきっちり、決着をつけてやる」
◇ ◇ ◇
夜明けが近づいていた。
東の空が白み始め、星が一つ、また一つと消えていく。ポズナンの操車場は、すでに戦闘配置についていた。全員が知っていた。幽霊列車が来ることを。
そしてクラスノフ博士の観測によれば、その時は、夜明けと共に訪れる。彼の電波観測機が、ミンスクで観測したのと同じパターンを捉えていた。周期は短く、強度は高くなっている。前回よりも遥かに強い力で、再出現しようとしている。
「——来るぞ」
機関室で、オルロフ爺が呟いた。
地平線の向こうに、黒い蒸気の柱が立ち昇るのが見えた。かつてミンスクで見たのと同じ光景。しかし今回は違っていた。幽霊列車の周囲に、無数のゾンビが集結している。ゾンビたちは幽霊列車を盾のように取り囲み、その前に「肉の壁」を形成していた。ゾンビと幽霊列車。物理的脅威と霊的脅威が、完全に融合していた。
「……あの野郎、賢くなりやがった」
オルロフ爺はアクセルを握り直した。今回は複線ドリフトではない。別の手を使う。無人在来線爆弾。聖水で実体化し、爆薬で吹き飛ばす。策はすでに整っている。あとは実行あるのみ。
「総員、戦闘配置!」
ジューコフの声が、全車両に響き渡った。
ポズナンの戦い、最終局面が幕を開ける。




