表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/35

第16話:最後の停車駅③

列車に戻ったグロモフの顔は、蒼白だった。


「元帥。操車場の状況を、操車場は、無傷です。貨車も弾薬庫も、そのまま——」


「偵察隊はどうした。キリレンコは」


グロモフは答えなかった。いや、答えられなかった。彼はただ、後方の操車場を見つめていた。その方向から聞こえていた戦闘音が、先ほど途絶えた。それが何を意味するか、グロモフは痛いほど理解していた。


「……そうか」


ジューコフはそれだけ言って、しばらく沈黙した。彼の拳が、無意識に握りしめられる。


「死んだのか」


「俺が、俺が命令したんです。時間を稼げと——」


グロモフの声は震えていた。指揮官として、彼は何度も部下の死を見てきた。今回だけが特別なわけではない。しかしそれでも、キリレンコの死は違った。彼はただの副官ではなかった。自分のジョークにツッコミを入れ、それでいて誰よりも信頼できる、唯一無二の戦友だった。


「大尉」


ジューコフの声は、驚くほど静かだった。


「お前の部下は、任務を遂行した。お前の命令で、お前の部下が、全員を生かすために死んだ。指揮官として、誇れ。責任は、私が取る」


「しかし——」


「しかし、ではない。泣くのは後にしろ。今は——」


ジューコフは前方を見据えた。


「前に進む時だ」


グロモフは拳を握りしめ、それからゆっくりと開いた。彼は泣かなかった。泣けなかった。指揮官が泣くのは、すべてが終わった後だと、彼は知っていた。それはキリレンコにも言われたことだった。そしてキリレンコは、まだ戦いの途中で散っていったのだ。だから今は泣けない。


「……了解」


彼は顔を上げた。まだ戦いは終わっていない。


◇ ◇ ◇


操車場の制圧は、迅速に行われた。


キリレンコとカチューシャが稼いだ時間の間に、グロモフが持ち帰った情報を基に、ジューコフの本隊は手際よく動いた。キリレンコが足止めしたゾンビの残存を掃討しつつ、貨車と弾薬庫を確保する。フィリポフとベッカーはタンク貨車の状態を確認し、フォン・シュタインベルクは戦車砲弾の在庫を確認した。


「88mm砲弾、あります! 榴弾が三十発、対戦車榴弾が二十発! それから75mm砲弾も——」


ハルトマン軍曹の報告に、フォン・シュタインベルクは深く息を吐いた。これで戦える。だが彼の視線は、操車場の片隅で佇むもう一人の男に注がれた。腰のサーベルを握りしめ、燃え尽きた戦場の跡をただ見つめている、ソ連の歩兵指揮官。その背中は、言葉にならない何かを背負っていた。


「……グロモフ大尉」


「何だ、少佐」


「副官を、失ったと聞いた」


グロモフは答えなかった。ただ廃墟となった操車場を見つめている。爆心地とおぼしき場所には、まだ黒い煤がくすぶっていた。


「私は、部下を多く失ってきた。指揮官として、あらゆる死を経験してきた。しかし副官の死は、ただの部下の死とは何かが違う。理解できる」


「何が言いたい」


「今は何も言わない。ただ——」


フォン・シュタインベルクは、グロモフの隣に立った。


「いつか戦いが終わったら、その時は、私が聞く。あなたの副官が、どんな男だったかを」


グロモフはフォン・シュタインベルクの顔を見た。青い目だった。しかしその目に宿っているのは、かつて敵として見ていた時の冷たさではなく、同じ指揮官としての重みと、共有された喪失の痛みだった。


「……コサックだった。いつも笑っていて、クソ真面目に剣を振り回して、それから——」


彼は、初めて微かに笑った。


「俺のジョークに、一回も笑わなかった」


「それは残念だ」


「ああ。本当にな」


二人は並んで、しばらく黙って操車場を見つめていた。失ったものは大きい。しかし獲得したものも大きかった。弾薬、食料、そして戦い続けるための全て。そして彼らは、その代償を決して忘れないだろう。


◇ ◇ ◇


操車場の隅で、工兵たちはタンク貨車の改造に取りかかっていた。


フィリポフはクズネツォフの手帳を開き、無人走行の仕組みを確認していた。アクセルを固定する装置、線路の分岐を強制的に切り替える機構、そして爆薬の起爆装置。それらすべてを一夜で仕上げなければならなかった。


「……できますね」


フィリポフが呟くと、隣でベッカーがスパナを回しながらうなずいた。


「できるできないではない。やるかやらないかだ。この列車に乗ってから、それで何度も——」


「何度も無茶をしてきました」


「そうだ。だから今回も、やるだけだ」


「クズネツォフ中尉が生きていれば、もっと上手くできたと思います」


「その中尉は、お前にこれを託した。それで十分だ」


フィリポフは手帳を胸にしまい、工具箱を手に取った。


「……そうですね。やります」


二人の工兵は、黙々と作業を続けた。火花が散り、ハンマーが打ち鳴らされ、溶接の青白い光が夜の闇を照らし出す。貨車の連結器、車軸、レバー、一つひとつが確実に仕組みとして組み上がっていく。


◇ ◇ ◇


タンク貨車の前。イヴァン神父とクラウス牧師、二人は巨大なタンクの前に並んで立っていた。


タンク貨車の容量は数千リットル。すでに給水ポンプで満たされた水が、タンクの中で静かに揺れている。この水すべてを聖水に変える。二人の祈りで。二人の信仰で。


「準備はよろしいですか、牧師」


「はい。神父」


イヴァンは十字架を掲げた。


「主よ——」


クラウスもまた、手を広げて祈り始めた。


二人の祈りは、かたちは違った。イヴァンは古い教会スラヴ語で、クラウスはドイツ語の聖書の言葉で。しかし祈りの魂は、同じだった。死者の魂を鋼鉄の檻から解放し、永遠の安息を与え給え、という祈り。


「——アーメン」


「——アーメン」


二人が同時に祈りを終えた瞬間、タンクの中の水が、一瞬だけ、青白く輝いたように見えた。ミンスクで見たのと同じ光。しかし今回はもっと強く、もっと確かな輝きだった。


「……これは」


クラウスが息を呑んだ。


「見えましたか」


「はい。確かに」


「同志コミッサロフに見せたいものです。彼はきっと『集団催眠だ』と言うでしょうが」


クラウスは声を出さずに笑った。


「私はあなたの信仰に、深く敬意を表します。正教会の司祭がこれほどの力を持つとは」


「宗派は関係ありません。信仰の強さだけが、結果を決めます。そして——」


イヴァンはクラウスの肩に手を置いた。


「あなたがいたからこそ、これだけの聖水ができた。感謝します」


二人は固く握手を交わした。宗派を越えた祈りが、今、一両のタンク貨車を、この世で最も強力な対幽霊兵器へと変えたのだ。


◇ ◇ ◇


その夜遅く。ジューコフは一人、指揮車両の窓辺に立っていた。


彼の手には一枚の紙。今日の戦死者のリストだった。


「カチューシャ・エカテリーナ・モロゾワ一等兵。キリレンコ・オレスト・タラソヴィチ少尉。アントン・ペトローヴィチ・コヴァレンコ二等兵。フリードリヒ・バウアー伍長。パウル・マイアー上等兵——」


コズロフが読み上げる名前のリスト。その中に、キリレンコの名前があった。そしてカチューシャの名前も。彼女の遺体は見つかっていない。


アントンの名前もあった。彼は操車場で弾薬庫を守るために戦い、ゾンビに噛まれて致命傷を負った。しかし彼は死ぬ前に、ボリスに向かって言った。


「なあ、ボリス……俺、最後にいいことしたかな」


「……ああ」


「それなら……いいや。ドイツ兵にも、パン、やれたし」


彼は笑って、目を閉じた。享年二十二。モスクワ出身の補充兵で、怖がりでおしゃべりで、ゾンビが来るたびに震えていた彼は、最後に勇敢だった。その死を看取ったボリスは、スターリングラード以来となる涙を流した。戦友のために涙を流したのは、彼にとって数年ぶりのことだった。


「全員、勇敢に戦った。記録しろ」


「了解」


ジューコフは窓の外の闇を見つめた。遠くに、ポズナンの廃墟が影のように浮かんでいる。その向こうに、ベルリンがある。そこに辿り着くまでに、あと何人犠牲になるだろう。それは誰にもわからない。


「……娘たちよ」


彼は胸ポケットの手紙に手を当てて、静かに呟いた。


「父さんは、もう少しだけ、戦う」


彼は手紙をしまい、地図の前に戻った。


◇ ◇ ◇


深夜。操車場の機関庫で、オルロフ爺は一人、操縦席に座っていた。


彼の手にはウォッカ瓶がない。代わりに、鹵獲したビールの瓶が握られている。彼は最初、「ビール? ウォッカじゃねえのか」と不満を言った。しかし一口飲んで、目を丸くした。


「……悪くない」


「でしょ? それはバイエルンの——」


バウマンが誇らしげに言いかけて、フォン・シュタインベルクに軽く制された。それでも機関室には、ほんの少しだけ笑い声が広がった。ビールを囲んで、ロシア人とドイツ人が同じものを飲む。それは、この旅で初めての光景だった。しかし全員が集まっているわけではなかった。キリレンコの席は空席で、カチューシャがいつも座っていた屋根の上も無人だった。戦死者たちの不在が、この小さな宴の静かな影となっていた。


「なあ、イワン二号」


オルロフ爺は計器盤に話しかけた。


「幽霊列車がまた来る。今度は完全に倒す。そのための準備はできた。聖水も爆薬もある。機関士として、無人列車を走らせるのは気が進まねえが——」


彼はビールをもう一口。


「クズネツォフなら、きっとこう言うだろうな。『走らせるために走らせるんです』って。あいつの理屈はいつもそうだった」


彼のポケットで、製造プレートがチャリ、と鳴った。オルロフ爺は口元を歪め、ビールの瓶を掲げた。


「見てろよ、クズネツォフ。今度はきっちり、決着をつけてやる」


◇ ◇ ◇


夜明けが近づいていた。


東の空が白み始め、星が一つ、また一つと消えていく。ポズナンの操車場は、すでに戦闘配置についていた。全員が知っていた。幽霊列車が来ることを。


そしてクラスノフ博士の観測によれば、その時は、夜明けと共に訪れる。彼の電波観測機が、ミンスクで観測したのと同じパターンを捉えていた。周期は短く、強度は高くなっている。前回よりも遥かに強い力で、再出現しようとしている。


「——来るぞ」


機関室で、オルロフ爺が呟いた。


地平線の向こうに、黒い蒸気の柱が立ち昇るのが見えた。かつてミンスクで見たのと同じ光景。しかし今回は違っていた。幽霊列車の周囲に、無数のゾンビが集結している。ゾンビたちは幽霊列車を盾のように取り囲み、その前に「肉の壁」を形成していた。ゾンビと幽霊列車。物理的脅威と霊的脅威が、完全に融合していた。


「……あの野郎、賢くなりやがった」


オルロフ爺はアクセルを握り直した。今回は複線ドリフトではない。別の手を使う。無人在来線爆弾。聖水で実体化し、爆薬で吹き飛ばす。策はすでに整っている。あとは実行あるのみ。


「総員、戦闘配置!」


ジューコフの声が、全車両に響き渡った。


ポズナンの戦い、最終局面が幕を開ける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ