第16話:最後の停車駅②
客車の端で、クラウス牧師は軍服の上から十字架を握りしめていた。
彼は四十二歳。かつてはバイエルンの小さな教会で牧師をしていたが、戦争で召集され、第7装甲師団の従軍牧師として東部戦線に送られた。ゾンビが発生してからは、彼の仕事は「祈り」から「現実」へと大きく変わった。負傷者の看護、死者の弔い、そして時に、ゾンビ化した戦友に最後の祈りを捧げること。祈りが現実を変えることはない。彼はそのことを、痛いほど理解していた。
「クラウス牧師、ですね」
声がして振り返ると、そこには巨体の男が立っていた。ソ連の軍服だが、その手には十字架が握られている。彼は理解した。この男もまた、自分と同じだ。
「……あなたは」
「イヴァンです。正教会の司祭です。表向きは衛生兵ですが」
「正教会の」
クラウスの目が、わずかに見開かれた。カトリックとプロテスタントの違いを越えて、彼らは同じ神を信じる者同士だった。しかしさらにその外側、東方正教会の司祭が、今、自分の目の前に立っている。
「驚かれましたか」
「いいえ。むしろ——」
クラウスは立ち上がり、イヴァンに右手を差し出した。
「心強い。あなたのような方が、この列車にいたとは」
二人は固く握手を交わした。宗派は違う。言葉の壁もある。しかし、同じ神を信じ、同じ敵と戦う。それだけで十分だった。
「実は、大きなお願いがあって来ました」
「聖水ですね」
「ご存じでしたか」
「ミンスクでの戦いのことを聞きました。あなたが聖水で幽霊列車を実体化させたと。私も微力ながら、お手伝いしたい」
イヴァンは深くうなずき、クラウスに次の作戦の概要を説明した。タンク貨車の容量は数千リットル。彼一人の祈りでは限界がある。しかし、二人なら。正教会とプロテスタント。東西の祈りが一つになれば、水の一滴一滴にまで祝福が届くかもしれない。
「……やりましょう。共に祈りましょう。死者たちの魂を、ようやく解放するために」
クラウスの声は静かだったが、確かな決意が込められていた。彼もまた、幽霊列車に閉じ込められた魂たちのことを知っていた。ドイツ人として、同胞が永遠に鋼鉄に縛られている現実を、彼は誰よりも重く受け止めていた。
「宗派の違いは?」
「祈りの前では、些細なことです」
イヴァンは微笑んだ。クラウスも微笑み返した。二人の間には、言葉を超えた理解が確かに存在していた。
「……ところで牧師。ひとつ、私的な質問を」
「なんでしょう」
「プロテスタントでは、聖水の概念が——」
「正教会やカトリックとは異なります。ですが、神の祝福が水に宿るという考えは、私の信仰にもあります。ただ、呼び方が違うだけです」
「なるほど。それは素晴らしい。同志コミッサロフに説明する時、『宗派を超えた水の祝福』と言えば、彼はまた頭を抱えるでしょう」
「同志コミッサロフとは?」
「我が列車の政治将校です。唯物論者で、規則を愛し、ゾンビの存在と党の規律の間で毎日頭を抱えている、不憫で愛すべき男です」
クラウスは吹き出しそうになったが、牧師としての品位を保って笑いをこらえた。
「……それは、なかなか大変そうな方ですね」
「ええ。でも、彼は良い人です。たぶん、この列車で一番規則に忠実です。それが時に問題ですが」
二人はしばらく信仰と戦争の話を続けた。正教会の祈りとプロテスタントの祈り。聖書の解釈の違い、礼拝形式の違い、そしてそれらを越えて繋がるもの。そのすべてが、戦場の列車の中で、奇妙なほど自然に響いた。
◇ ◇ ◇
午後。地平線にポズナンの街が姿を現した。
「前方にポズナン! 距離約十キロ!」
見張りの声が列車中に響いた。全員が窓に張り付く。ポズナンは、ワルシャワとは異なる様相を見せていた。街の多くは爆撃で破壊され、煙を上げている。しかしワルシャワほどゾンビの密度は高くないように見えた。なぜなら——。
「誰かが戦ってる」
グロモフが双眼鏡を構えた。街の中から、小銃の射撃音が聞こえる。まだ断続的だ。しかし確かに、誰かが戦っている。それは、生きている人間がまだこの街にいることの証拠だった。しかしワルシャワとは違い、大規模な砲撃ではない。おそらく、敗残兵の散発的な抵抗か、あるいはもっと別の何かか。
「偵察隊を出す。操車場の状況を確認しろ」
ジューコフの命令で、グロモフはすぐに偵察隊を編成した。自ら隊を率い、キリレンコを含む数名の兵士が選ばれた。
「アントン、ボリス。お前たちは列車の防衛に残れ。いいな」
「了解!」
「……わかった」
ボリスはいつもの無表情でうなずいた。しかし彼の目は、グロモフの背中をじっと見つめていた。何かを感じ取っているようだった。
「大尉」
呼び止めたのはキリレンコだった。
「なんだ」
「俺も行きますよ。サーベルが錆びてしまいそうで」
「当然だ。お前は俺の副官だからな。俺のジョークにツッコむ役目は誰にも譲れん」
「大丈夫です。大尉のジョークは、ツッコまなくても勝手に滑りますから」
「……それ、褒めてるのか」
「もちろん。いつも通りです」
二人は顔を見合わせて笑い、列車を降りてポズナンの廃墟へと向かっていった。雪の上に残る足跡だけが、彼らが確かにそこにいたことを示していた。
◇ ◇ ◇
操車場は、思ったよりも無傷だった。
ポズナンの鉄道施設は、ドイツ軍の補給拠点として厳重に防衛されていた。高射砲陣地、トーチカ、鉄条網。防衛設備の多くはすでに破壊されていたが、操車場そのものは奇跡的に残っていた。線路は無事で、複数の側線には貨車が何両も留置されている。中には液体輸送用のタンク貨車もある。まさに彼らが必要としていたものだ。
「……あるぞ。弾薬庫も無事だ」
グロモフは操車場の端にある補給廠の入り口を確認した。鉄の扉は閉ざされているが、破壊された形跡はない。中に何が残っているかはわからない。しかし、ワルシャワで使い果たした戦車砲弾を補充できる可能性があった。
「大尉。ここです。タンク貨車が三両——」
キリレンコの報告が、途中で途切れた。
「どうした」
「ゾンビです。数が多い。操車場の北側から接近中」
グロモフは即座に判断した。
「一度列車に戻る。情報を持ち帰り、本隊で制圧する。撤退だ」
「——いえ」
キリレンコは首を振った。彼の右手は、サーベルの柄を握っていた。
「大尉が情報を持ち帰ってください。俺はここで時間を稼ぎます。彼らが操車場に入れば、貨車も弾薬庫も台無しになる」
「馬鹿を言うな。お前一人で——」
「一人じゃありません。あそこを見てください」
キリレンコが指さした先。給水塔の上に、かすかな光がきらめいた。スコープの反射だ。カチューシャがすでに狙撃ポジションを確保していた。
「彼女が援護してくれます。俺が地上で剣を振るい、彼女が屋根から撃つ。それで十分です」
「キリレンコ——」
「大尉」
キリレンコはサーベルを抜いた。その刀身が、冬の弱々しい日差しを受けて白く輝く。
「これは命令ですか、それとも」
「……命令だ。死ぬな。だから——」
グロモフの声は震えていた。彼はそれを隠そうともしなかった。
「必ず戻れ。俺のジョークにツッコむためにな」
グロモフの声は震えていた。キリレンコは笑った。いつものように、明るく、無邪気に。
「了解です、大尉。でも、もし戻れなくても——」
彼はサーベルを掲げた。その切っ先は、ゾンビの群れが迫る方向をまっすぐに指している。
「どうか、笑ってください。俺のぶんも」
そして彼は、走り出した。
一人で。サーベル一本で。ゾンビの群れの中へ。
◇ ◇ ◇
給水塔の上。カチューシャはスコープを覗き、眼下の光景を静かに見つめていた。
彼女はグロモフたちより先にポズナンに到着し、この給水塔を狙撃ポイントとして確保していた。高さ約二十メートル。見晴らしは完璧だった。彼女のスコープには、操車場に押し寄せるゾンビの群れがはっきりと映っている。
「……多いなあ。百は超えてる。二百かな」
彼女は呟きながら、最初の一発を放った。弾丸は正確にゾンビの頭を貫き、一体が崩れ落ちる。
「六十五人目」
次の一発。また一人。その次も。彼女の弾丸は、一発も無駄にならなかった。すべてが頭部を正確に捉え、ゾンビを完全に無力化する。狙撃兵として、これ以上ない完璧な働きだった。
しかし、ゾンビの数は多すぎた。倒しても倒しても、次から次へと押し寄せてくる。そして彼らは、弾丸が飛んでくる方向を学習した。給水塔の周囲に、ゾンビが集まり始めていた。
「……囲まれたか」
彼女はスコープから目を離さずに呟いた。給水塔の梯子はすでにゾンビで埋め尽くされている。降りることはできない。残弾も少ない。あと数発。
彼女の顔には、それでも笑みが浮かんでいた。
「まあ、いいや。どうせいつかはこうなると思ってた。ここは見晴らしがいいし、風も来ない。最高の射撃ポジションだ」
彼女は最後の弾丸を装填し、スコープを覗いた。
「——じゃあ、最後まで撃とうか」
狙撃銃の銃声が、一つ。また一つ。ポズナンの空に響いた。給水塔の上で、彼女は一人で戦い続けていた。誰に見られることもなく、誰に讃えられることもなく。ただ、彼女が選んだ場所で、彼女が選んだ戦い方を。
「……七十二」
「……七十三」
「——七十四」
そして。
給水塔の中で、一発の銃声が響いた。
それが彼女の狙撃銃の音だったのか、それとも別の銃の音だったのか。誰にもわからなかった。ただ一発の銃声が、給水塔の中で響き、そして静寂が訪れた。
◇ ◇ ◇
操車場の入り口。キリレンコは、サーベル一本で戦っていた。
左手は動かない。包帯で吊られた腕がぶらぶらと揺れている。しかし彼の右手は、まるで独立した生き物のように正確に動き続けていた。
「はああああっ!」
水平に薙ぐ。ゾンビの首が飛び、腐敗した血が雪を汚す。返す刀で二体目を斬り伏せ、三体目を蹴り飛ばした。四体目が背後から迫るのを気配で察知し、振り返らずに後ろ突き。ブレードがゾンビの喉を貫き、そのまま引き抜く。
「剣は嘘をつかない! そして——ッ!」
彼は叫びながら、五体目、六体目を連続で斬り捨てた。しかし限界は近かった。ゾンビの数は減るどころか、増え続けている。彼の周りには、いつの間にか数十体のゾンビが集まっていた。
それでも、彼は笑っていた。コサックの血が、死の直前こそ最も熱く燃える。彼の祖父も、曽祖父も、そのまた先祖も、みな最後まで剣を握って戦場に散った。その血が今、彼の中で燃え上がっている。
「……そろそろ、だな」
彼はサーベルを構え直し、周囲のゾンビを見渡した。二十体、三十体、まだ増えている。カチューシャの狙撃が途絶えた。給水塔からの援護が止まり、ゾンビのすべてが彼一人に向かってくる。それがむしろ、好都合だった。彼がここで時間を稼げば、本隊は準備を整えられる。貨車を確保できる。弾薬を補給できる。幽霊列車を倒す準備ができる。
「大尉。聞こえてますか、大尉」
彼は誰に言うともなく呟いた。彼の声はもう、誰にも届かない。それでも彼は笑った。
「今度こそ、俺が先に死にます。命令違反ですね。怒ってください。それから——」
彼はサーベルを構え、最後の突撃を開始した。
「大尉のジョークは、いつか誰かが笑います。俺は笑えなかったけど、でも——」
彼は笑った。
「嫌いじゃなかったですよ!」
数十体のゾンビが一斉に彼に殺到した。彼はその中で、サーベルを振るい、蹴り、頭突きをし、歯を食いしばりながら戦い続けた。ゾンビが彼の右肩に噛みつき、左脚にしがみつき、それでも彼は剣を振るい続けた。すでに出血は致死量を超えている。剣の動きも鈍り、視界が狭まり、痛覚すらも麻痺し始めていた。
最後の瞬間。
彼はポケットから手榴弾を取り出した。安全ピンを口で咥えて引き抜き、起爆レバーが外れるその瞬間まで握りしめ、ゾンビの群れの真ん中で、彼は微笑んだ。
「——剣は」
爆発。
「嘘を」
閃光。
「つかない」
轟音。
それが、オレスト・タラソヴィチ・キリレンコ少尉の最期だった。
彼が稼いだ時間は、わずか十数分。しかしその十数分が、この作戦の成否を分けた。そして彼の遺体は、もはや見つけることはできなかった。彼が散った場所には、ゾンビの死体の山と、折れたサーベルの破片だけが残されていた。




