第16話:最後の停車駅①
ワルシャワを突破してから丸一日。ポーランドの平原は、どこまでも白く、どこまでも静かだった。
雪は止み、風は凪ぎ、空には冬の弱々しい太陽が浮かんでいる。ゾンビの姿はまばらだった。ワルシャワでの大規模戦闘で、周辺一帯のゾンビが街へと引き寄せられた結果かもしれない。あるいは、ベルリンの発信源に近づくにつれて、ゾンビたちの行動パターンが何か別の変化を起こしているのか。
どちらにせよ、乗組員たちにとっては貴重な休息だった。
しかし、その休息の中で、誰もが感じていた。これは嵐の前の静けさだと。
◇ ◇ ◇
客車の一室。キリレンコは壁にもたれて座り、膝の上に広げた布でサーベルを磨いていた。
彼の左腕はまだ包帯で吊られたままだったが、それでもサーベルを磨く手つきは驚くほど丁寧だった。刃こぼれした前のサーベルはワルシャワで退役し、今は予備のサーベルを帯びている。これは彼がモスクワを発つ前に、コサックの古老から譲り受けたものだった。
「……研げば研ぐほど、余計なものが落ちていく」
彼は誰に言うともなく呟いた。
「余計なもの?」
声がして顔を上げると、グロモフが立っていた。手には二つのマグカップ。湯気が立っている。ただの湯だ。茶葉はとっくに底をついていたが、それでも温かい飲み物は貴重だった。
「大尉。見回りですか」
「いや。お前にこれを渡しに来た」
グロモフはマグカップを一つ差し出した。キリレンコはサーベルを膝の上に置き、マグカップを受け取った。湯気が顔に当たり、冬の冷気でかじかんだ指先に熱が伝わる。
「……温かいですね」
「当たり前だ。湯だ」
「湯でも、大尉が自ら持ってきてくれるなら御馳走です」
グロモフはキリレンコの隣にどっかと腰を下ろした。二人はしばらく無言で湯をすすった。窓の外には、雪の平原がどこまでも続いている。時折、遠くの廃墟がちらりと見えては、また消えていった。
「キリレンコ」
「なんでしょう」
「お前は、なぜいつも笑っていられる」
キリレンコは少し考えてから、サーベルを鞘に収めた。
「……コサックには、こんな言い伝えがあります。『戦場で泣く者は、死ぬ前に一度死ぬ。笑う者は、死んだ後も生き続ける』」
「詩的だな。ジョークか?」
「半分は。でも半分は本気です。俺は、死ぬことを怖がっていません。怖がることに意味がないからです。それよりも——」
彼はグロモフの顔を見た。
「大尉のジョークが、今度こそ笑えるものになるように祈ってます。いや、祈るのは神父の仕事か。じゃあ、願ってます」
「……滑っても知らんぞ」
「滑るから笑えるんです。滑らなかったら、それはただの正論ですよ」
グロモフは一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。久しぶりの、心からの笑いだった。
「お前な、キリレンコ。そういうことばっかり言うから——」
「だから?」
「いや。なんでもない」
グロモフは立ち上がり、空になったマグカップを手に取った。キリレンコも立ち上がり、サーベルを腰に帯びる。左腕は動かないが、右手一本でも彼の剣技は健在だった。
「ポズナンまでもうすぐです。最後の停車駅。何が待ってるんでしょうね」
「さあな。でも——」
グロモフは通路の先、前方の線路を見つめながら言った。
「俺たちなら、なんとかするさ」
「そうですね。大尉のジョークで敵を滑らせてる間に、俺が斬ります」
「俺のジョークは武器じゃない!」
「武器ですよ。れっきとした」
二人の笑い声が、静かな客車に響いた。この穏やかな時間が、永遠には続かないことを、二人とも知っていた。しかしだからこそ、今この瞬間を笑うことが、彼らの戦い方だった。
◇ ◇ ◇
屋根の上。カチューシャは今日もスコープを覗いていた。
風は冷たく、吐く息は白く凍る。彼女の金髪は雪の結晶でキラキラと輝き、そばかすだらけの頬は寒さで赤くなっていた。しかし彼女は動かなかった。動く必要がなかった。彼女にとって、この場所こそが最も落ち着く場所だった。
客車の中には、彼女が入る隙間はなかった。彼女はそれを知っていた。誰も彼女を拒絶はしなかったが、誰も彼女を積極的に受け入れもしなかった。彼女が楽しそうにゾンビを撃つたびに、周囲の兵士たちは少しだけ距離を置いた。それが彼女にはわかっていた。
「……六十二人目」
彼女はスコープに映ったゾンビの頭を撃ち抜きながら、小さく呟いた。ワルシャワで彼女は十七体のゾンビを仕留めた。狙撃兵としては驚異的な数字だ。しかし彼女にとって、それはただの数字だった。
「六十三……六十四……今日はあと三人で区切りがいいな」
その時、屋根のハッチが開き、一人の兵士が顔を出した。歩兵のアントンだった。彼は震えながら、カチューシャに声をかけた。
「あ、あの、モロゾワ一等兵。寒くないですか。中に——」
「大丈夫」
カチューシャは振り返らずに答えた。
「寒いほうが、集中できるから」
「でも、もう四時間は屋根の上に——」
「アントン、だっけ。あんた、優しいね」
カチューシャは初めてスコープから目を離し、アントンの方を見た。その顔には、いつもの微笑みが浮かんでいた。
「でも、大丈夫。私はここが好きだから。ここにいると、全部がはっきり見える。誰を撃つべきか、どこを狙うべきか。簡単で、わかりやすい」
「わかりやすい……ですか」
「うん。中にいると、人の顔が見えすぎる。笑ってるのか、怒ってるのか、怖がってるのか。それがわかると、撃つ時にちょっとだけ迷う。でもここは違う。みんな、ただの点だ」
アントンは何も言えなかった。ただカチューシャの背中を見つめていた。彼女の言葉が、強がりなのか本心なのか、彼には判断がつかなかった。ただ、彼女の背中が、とても小さく見えたことだけは確かだった。
「じゃあ、行くね」
「あっ、はい。ごめんなさい、邪魔して——」
「邪魔じゃないよ。話しかけてくれて、ありがと」
カチューシャは微笑んだ。その微笑みが、今回はほんの少しだけ、目にも届いていた。アントンはその笑顔に何か感じるものがあったが、言葉にできなかった。彼は黙って屋根のハッチを閉じ、客車の中に戻った。
彼女は再びスコープを覗いた。
「……さて、次は誰かな」
◇ ◇ ◇
指揮車両。
ジューコフは地図を広げ、コズロフと最後の作戦会議を開いていた。
「ポズナンまでの距離は、あと約五十キロ。到着は本日中」
「問題は、ポズナンの操車場です」
コズロフが地図の上に指を置いた。
「ポズナンはワルシャワからベルリン間の最重要中継地点です。ワルシャワよりやや小規模ですが、ドイツ軍の補給拠点として機能していたため、物資の備蓄が期待できます。何より、戦車の砲弾を補充できる可能性が高い」
「砲弾か。ワルシャワで使い切ったからな」
「はい。88mm砲弾、75mm砲弾、いずれも底をついています。ポズナンで補充できなければ、ベルリンには丸腰で突入することになります」
ジューコフは腕を組んだ。丸腰でベルリンに突入する。それはもはや作戦ではなく、特攻だった。彼は特攻を嫌っていた。勝つために戦うのが指揮官の仕事であり、死ぬために戦うのは指揮官の敗北だ。
「ヴェーバー。ポズナンの施設情報は」
「はい」
ヴェーバーは地図の上に、手書きのメモを広げた。
「ポズナン操車場は、ドイツ軍の補給拠点『ラーツァー補給廠』に隣接しています。ここには弾薬庫、燃料庫、そして——」
「そして?」
「ビールの備蓄があるという噂があります。国防軍はポーランドのビール醸造所を接収して、前線への供給品として流通させていました」
「ビールだ?」
ジューコフの眉が動いた。コズロフが小さく咳払いをする。彼もまた、オルロフ爺のウォッカ切れを気にしていた一人だった。
「元帥、ビールはウォッカの代わりにならないとオルロフ爺が——」
「『燃料』になるなら何でもいい。それから、砲弾が最優先だ。ビールはその次だ」
「了解」
「それとコズロフ。もう一つ、気になることがある」
ジューコフは地図の上に、別の情報を書き込んだメモを置いた。クラスノフ博士の走り書きだった。
「博士が言うには、ポズナン周辺で『異常な電波干渉』を観測したそうです。ベルリンからの信号とは別の、何か別の信号。パターンがミンスクで観測されたものと——」
「幽霊列車か」
「おそらくな。まだ出てきてはいない。だが博士は『必ず来る』と断言している」
コズロフは深いため息をついた。
「元帥。今回は、私に作戦を提案させてください」
「聞こう」
コズロフは地図の上に、線路の図面を素早く描いた。
「ポズナン操車場には、液体輸送用のタンク貨車があるはずです。それを聖水で満たし、鹵獲した爆薬を積み込み、アクセルを固定して幽霊列車に向けて走らせる。聖水で実体化させ、爆薬で物理破壊する。二段構えです。名付けて——」
「無人在来線爆弾、か」
「……名前までお考えでしたか」
「先を読むのが指揮官の仕事だ。名前はなんでもいい。問題は、誰がそれを作り、誰がそれを守るかだ」
ジューコフは地図の上の操車場を指で叩いた。
「爆薬を調達するには、操車場の弾薬庫を制圧しなければならない。タンク貨車もそこにある。つまり——」
「まずは操車場をゾンビから奪還する必要があります」
「ああ。そして、幽霊列車が来る前にすべてを準備しなければならない」
二人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。やるべきことは決まった。あとは実行するだけだった。
◇ ◇ ◇
食堂車の隅の席。イヴァン神父は、一人で祈りを捧げていた。
彼の手には、いつもの十字架が握られている。しかし今日は、その手がほんの少し震えていた。ミンスクで聖水を作った時、彼は確かに「何か」を感じた。それは信仰の力だったのか、それともただの錯覚だったのか。彼にはまだわからなかった。
「同志、何を考えている」
声がして顔を上げると、コミッサロフが立っていた。手には手帳。いつもの光景だった。
「……祈っていました」
「そうか。邪魔したな」
「いえ。どうしたんです」
コミッサロフはイヴァンの向かいに座った。少し躊躇してから、口を開いた。
「ドイツ兵の部隊の中に、従軍牧師がいると聞いた」
「牧師?」
「プロテスタントの。ヨハネス・クラウスという名だ。フォン・シュタインベルク少佐の部隊で、負傷者の精神ケアをしていたらしい。この前の戦闘までは存在すら知らなかった。あの少佐の部隊は意外と信仰に寛容なのか、それとも単に人手不足なのか。どちらにせよ——」
「私が会うべきでしょうか」
「……ああ。次の戦闘では、聖水がまた必要になる。ジューコフ元帥から『可能なら量を増やせ』と。あんた一人では限界がある。無理だとはわかっている——」
「わかりました」
イヴァンは立ち上がった。十字架を握り直し、背筋を伸ばす。
「どこに行く」
「その牧師に会います。共に祈る者がいれば、聖水の力も倍になるでしょう」
「倍になる? そんな非科学的な——」
「ええ、非科学的です。ですが同志、あなた自身がミンスクで言ったではありませんか。『今だけは認める。あんたの聖水は効いた』と」
コミッサロフは口を開き、そして閉じた。手帳に何かを走り書きし、深いため息をついた。ため息の数が、この旅でどんどん増えている。それに彼は気づいていたが、認めたくなかった。
「……わかった。今だけは、もう一度だけ、認める」
「今だけですか」
「今だけだ」
「それで十分です」
イヴァンは微笑み、食堂車を出て行った。コミッサロフはその後ろ姿を見送りながら、手帳に「ドイツ人従軍牧師との信仰共闘。唯物論的に説明不能」と書き込んだ。




