表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/35

第16話:最後の停車駅①

ワルシャワを突破してから丸一日。ポーランドの平原は、どこまでも白く、どこまでも静かだった。


雪は止み、風は凪ぎ、空には冬の弱々しい太陽が浮かんでいる。ゾンビの姿はまばらだった。ワルシャワでの大規模戦闘で、周辺一帯のゾンビが街へと引き寄せられた結果かもしれない。あるいは、ベルリンの発信源に近づくにつれて、ゾンビたちの行動パターンが何か別の変化を起こしているのか。


どちらにせよ、乗組員たちにとっては貴重な休息だった。


しかし、その休息の中で、誰もが感じていた。これは嵐の前の静けさだと。


◇ ◇ ◇


客車の一室。キリレンコは壁にもたれて座り、膝の上に広げた布でサーベルを磨いていた。


彼の左腕はまだ包帯で吊られたままだったが、それでもサーベルを磨く手つきは驚くほど丁寧だった。刃こぼれした前のサーベルはワルシャワで退役し、今は予備のサーベルを帯びている。これは彼がモスクワを発つ前に、コサックの古老から譲り受けたものだった。


「……研げば研ぐほど、余計なものが落ちていく」


彼は誰に言うともなく呟いた。


「余計なもの?」


声がして顔を上げると、グロモフが立っていた。手には二つのマグカップ。湯気が立っている。ただの湯だ。茶葉はとっくに底をついていたが、それでも温かい飲み物は貴重だった。


「大尉。見回りですか」


「いや。お前にこれを渡しに来た」


グロモフはマグカップを一つ差し出した。キリレンコはサーベルを膝の上に置き、マグカップを受け取った。湯気が顔に当たり、冬の冷気でかじかんだ指先に熱が伝わる。


「……温かいですね」


「当たり前だ。湯だ」


「湯でも、大尉が自ら持ってきてくれるなら御馳走です」


グロモフはキリレンコの隣にどっかと腰を下ろした。二人はしばらく無言で湯をすすった。窓の外には、雪の平原がどこまでも続いている。時折、遠くの廃墟がちらりと見えては、また消えていった。


「キリレンコ」


「なんでしょう」


「お前は、なぜいつも笑っていられる」


キリレンコは少し考えてから、サーベルを鞘に収めた。


「……コサックには、こんな言い伝えがあります。『戦場で泣く者は、死ぬ前に一度死ぬ。笑う者は、死んだ後も生き続ける』」


「詩的だな。ジョークか?」


「半分は。でも半分は本気です。俺は、死ぬことを怖がっていません。怖がることに意味がないからです。それよりも——」


彼はグロモフの顔を見た。


「大尉のジョークが、今度こそ笑えるものになるように祈ってます。いや、祈るのは神父の仕事か。じゃあ、願ってます」


「……滑っても知らんぞ」


「滑るから笑えるんです。滑らなかったら、それはただの正論ですよ」


グロモフは一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。久しぶりの、心からの笑いだった。


「お前な、キリレンコ。そういうことばっかり言うから——」


「だから?」


「いや。なんでもない」


グロモフは立ち上がり、空になったマグカップを手に取った。キリレンコも立ち上がり、サーベルを腰に帯びる。左腕は動かないが、右手一本でも彼の剣技は健在だった。


「ポズナンまでもうすぐです。最後の停車駅。何が待ってるんでしょうね」


「さあな。でも——」


グロモフは通路の先、前方の線路を見つめながら言った。


「俺たちなら、なんとかするさ」


「そうですね。大尉のジョークで敵を滑らせてる間に、俺が斬ります」


「俺のジョークは武器じゃない!」


「武器ですよ。れっきとした」


二人の笑い声が、静かな客車に響いた。この穏やかな時間が、永遠には続かないことを、二人とも知っていた。しかしだからこそ、今この瞬間を笑うことが、彼らの戦い方だった。


◇ ◇ ◇


屋根の上。カチューシャは今日もスコープを覗いていた。


風は冷たく、吐く息は白く凍る。彼女の金髪は雪の結晶でキラキラと輝き、そばかすだらけの頬は寒さで赤くなっていた。しかし彼女は動かなかった。動く必要がなかった。彼女にとって、この場所こそが最も落ち着く場所だった。


客車の中には、彼女が入る隙間はなかった。彼女はそれを知っていた。誰も彼女を拒絶はしなかったが、誰も彼女を積極的に受け入れもしなかった。彼女が楽しそうにゾンビを撃つたびに、周囲の兵士たちは少しだけ距離を置いた。それが彼女にはわかっていた。


「……六十二人目」


彼女はスコープに映ったゾンビの頭を撃ち抜きながら、小さく呟いた。ワルシャワで彼女は十七体のゾンビを仕留めた。狙撃兵としては驚異的な数字だ。しかし彼女にとって、それはただの数字だった。


「六十三……六十四……今日はあと三人で区切りがいいな」


その時、屋根のハッチが開き、一人の兵士が顔を出した。歩兵のアントンだった。彼は震えながら、カチューシャに声をかけた。


「あ、あの、モロゾワ一等兵。寒くないですか。中に——」


「大丈夫」


カチューシャは振り返らずに答えた。


「寒いほうが、集中できるから」


「でも、もう四時間は屋根の上に——」


「アントン、だっけ。あんた、優しいね」


カチューシャは初めてスコープから目を離し、アントンの方を見た。その顔には、いつもの微笑みが浮かんでいた。


「でも、大丈夫。私はここが好きだから。ここにいると、全部がはっきり見える。誰を撃つべきか、どこを狙うべきか。簡単で、わかりやすい」


「わかりやすい……ですか」


「うん。中にいると、人の顔が見えすぎる。笑ってるのか、怒ってるのか、怖がってるのか。それがわかると、撃つ時にちょっとだけ迷う。でもここは違う。みんな、ただの点だ」


アントンは何も言えなかった。ただカチューシャの背中を見つめていた。彼女の言葉が、強がりなのか本心なのか、彼には判断がつかなかった。ただ、彼女の背中が、とても小さく見えたことだけは確かだった。


「じゃあ、行くね」


「あっ、はい。ごめんなさい、邪魔して——」


「邪魔じゃないよ。話しかけてくれて、ありがと」


カチューシャは微笑んだ。その微笑みが、今回はほんの少しだけ、目にも届いていた。アントンはその笑顔に何か感じるものがあったが、言葉にできなかった。彼は黙って屋根のハッチを閉じ、客車の中に戻った。


彼女は再びスコープを覗いた。


「……さて、次は誰かな」


◇ ◇ ◇


指揮車両。


ジューコフは地図を広げ、コズロフと最後の作戦会議を開いていた。


「ポズナンまでの距離は、あと約五十キロ。到着は本日中」


「問題は、ポズナンの操車場です」


コズロフが地図の上に指を置いた。


「ポズナンはワルシャワからベルリン間の最重要中継地点です。ワルシャワよりやや小規模ですが、ドイツ軍の補給拠点として機能していたため、物資の備蓄が期待できます。何より、戦車の砲弾を補充できる可能性が高い」


「砲弾か。ワルシャワで使い切ったからな」


「はい。88mm砲弾、75mm砲弾、いずれも底をついています。ポズナンで補充できなければ、ベルリンには丸腰で突入することになります」


ジューコフは腕を組んだ。丸腰でベルリンに突入する。それはもはや作戦ではなく、特攻だった。彼は特攻を嫌っていた。勝つために戦うのが指揮官の仕事であり、死ぬために戦うのは指揮官の敗北だ。


「ヴェーバー。ポズナンの施設情報は」


「はい」


ヴェーバーは地図の上に、手書きのメモを広げた。


「ポズナン操車場は、ドイツ軍の補給拠点『ラーツァー補給廠』に隣接しています。ここには弾薬庫、燃料庫、そして——」


「そして?」


「ビールの備蓄があるという噂があります。国防軍はポーランドのビール醸造所を接収して、前線への供給品として流通させていました」


「ビールだ?」


ジューコフの眉が動いた。コズロフが小さく咳払いをする。彼もまた、オルロフ爺のウォッカ切れを気にしていた一人だった。


「元帥、ビールはウォッカの代わりにならないとオルロフ爺が——」


「『燃料』になるなら何でもいい。それから、砲弾が最優先だ。ビールはその次だ」


「了解」


「それとコズロフ。もう一つ、気になることがある」


ジューコフは地図の上に、別の情報を書き込んだメモを置いた。クラスノフ博士の走り書きだった。


「博士が言うには、ポズナン周辺で『異常な電波干渉』を観測したそうです。ベルリンからの信号とは別の、何か別の信号。パターンがミンスクで観測されたものと——」


「幽霊列車か」


「おそらくな。まだ出てきてはいない。だが博士は『必ず来る』と断言している」


コズロフは深いため息をついた。


「元帥。今回は、私に作戦を提案させてください」


「聞こう」


コズロフは地図の上に、線路の図面を素早く描いた。


「ポズナン操車場には、液体輸送用のタンク貨車があるはずです。それを聖水で満たし、鹵獲した爆薬を積み込み、アクセルを固定して幽霊列車に向けて走らせる。聖水で実体化させ、爆薬で物理破壊する。二段構えです。名付けて——」


「無人在来線爆弾、か」


「……名前までお考えでしたか」


「先を読むのが指揮官の仕事だ。名前はなんでもいい。問題は、誰がそれを作り、誰がそれを守るかだ」


ジューコフは地図の上の操車場を指で叩いた。


「爆薬を調達するには、操車場の弾薬庫を制圧しなければならない。タンク貨車もそこにある。つまり——」


「まずは操車場をゾンビから奪還する必要があります」


「ああ。そして、幽霊列車が来る前にすべてを準備しなければならない」


二人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。やるべきことは決まった。あとは実行するだけだった。


◇ ◇ ◇


食堂車の隅の席。イヴァン神父は、一人で祈りを捧げていた。


彼の手には、いつもの十字架が握られている。しかし今日は、その手がほんの少し震えていた。ミンスクで聖水を作った時、彼は確かに「何か」を感じた。それは信仰の力だったのか、それともただの錯覚だったのか。彼にはまだわからなかった。


「同志、何を考えている」


声がして顔を上げると、コミッサロフが立っていた。手には手帳。いつもの光景だった。


「……祈っていました」


「そうか。邪魔したな」


「いえ。どうしたんです」


コミッサロフはイヴァンの向かいに座った。少し躊躇してから、口を開いた。


「ドイツ兵の部隊の中に、従軍牧師がいると聞いた」


「牧師?」


「プロテスタントの。ヨハネス・クラウスという名だ。フォン・シュタインベルク少佐の部隊で、負傷者の精神ケアをしていたらしい。この前の戦闘までは存在すら知らなかった。あの少佐の部隊は意外と信仰に寛容なのか、それとも単に人手不足なのか。どちらにせよ——」


「私が会うべきでしょうか」


「……ああ。次の戦闘では、聖水がまた必要になる。ジューコフ元帥から『可能なら量を増やせ』と。あんた一人では限界がある。無理だとはわかっている——」


「わかりました」


イヴァンは立ち上がった。十字架を握り直し、背筋を伸ばす。


「どこに行く」


「その牧師に会います。共に祈る者がいれば、聖水の力も倍になるでしょう」


「倍になる? そんな非科学的な——」


「ええ、非科学的です。ですが同志、あなた自身がミンスクで言ったではありませんか。『今だけは認める。あんたの聖水は効いた』と」


コミッサロフは口を開き、そして閉じた。手帳に何かを走り書きし、深いため息をついた。ため息の数が、この旅でどんどん増えている。それに彼は気づいていたが、認めたくなかった。


「……わかった。今だけは、もう一度だけ、認める」


「今だけですか」


「今だけだ」


「それで十分です」


イヴァンは微笑み、食堂車を出て行った。コミッサロフはその後ろ姿を見送りながら、手帳に「ドイツ人従軍牧師との信仰共闘。唯物論的に説明不能」と書き込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ