第15話:ワルシャワ突破戦①
夜明け前。ワルシャワの空は、まだ闇に閉ざされていた。
しかし機関室だけは、とっくに目を覚ましていた。石炭の燃えるオレンジ色の光が、オルロフ爺の皺だらけの顔を照らし出している。彼は一睡もせずに機関の準備を整え、蒸気圧をじわじわと上げ続けていた。
圧力計の針が、ゆっくりと上昇していく。五気圧。七気圧。十気圧。イワン二号のボイラーが、唸るように震え始める。
「よし、いい子だ。今日は重いぞ。あのデカブツどもを引っ張るんだからな」
オルロフ爺は空になったウォッカ瓶を名残惜しそうに見つめ、棚の奥にしまい込んだ。昨夜で完全に底をついた。最後の一滴は、初代イワンとクズネツォフに捧げてしまった。今日から彼は、完全な素面で戦うことになる。何年ぶりだろうか。いや、何十年ぶりか。
「……まあ、たまには素面も悪くない」
彼は自分に言い聞かせるように呟き、操縦桿を握り直した。
「クズネツォフ。お前はいつも素面だったよな。見習うとするか」
製造プレートが、チャリ、と鳴った。
◇ ◇ ◇
午前四時半。全車両にジューコフの声が響いた。
「総員に告ぐ。これよりワルシャワを突破する」
簡潔な、しかし絶対の命令だった。
「戦車貨車の砲手は、発射準備。目標はワルシャワ中央駅前に集結したゾンビの密集地帯。全砲門、斉射後は障害を正面突破。途中停車はしない。速度を維持したまま市内を通過し、ポズナン方面へ向かう。以上だ」
指揮車両で、コズロフがいつものように最後の確認を終えていた。
「同志元帥。全車両、戦闘配置完了。戦車貨車の三両、射撃準備完了。フォン・シュタインベルク少佐から伝言です。『ティーガーはいつでも撃てる。目標を指示されたし』と」
「よし。出発だ」
蒸気が唸りを上げ、車輪が軋み、鋼鉄の巨体が動き出す。イワン二号、戦車貨車を含む全編成が、ワルシャワの夜明け前の闇の中へと滑り出していった。
連結器にかかる負荷は、これまでとは比較にならなかった。百トンを超える重量がイワン二号の後ろにぶら下がっている。オルロフ爺は操縦桿を通して伝わってくるその重さを、全身で感じ取っていた。
「重い……! だが、走れる!」
彼は蒸気をさらに送り込んだ。圧力計の針が限界値近くに達し、安全弁がかすかに震えている。それでも彼はアクセルを緩めなかった。イワン二号が音を上げるまでは、限界ではないのだ。
見張り台には、今日もアントンとボリスが座っていた。
「なあ、ボリス。見えるか? ワルシャワの街だ」
「ああ」
地平線の向こうに、ワルシャワの廃墟が浮かび上がってきていた。かつてポーランドの誇りだった美しい街並みは、爆撃と砲撃とゾンビによって、今や見る影もなく崩れ落ちている。しかしそれでも、そこには確かに「街」の形が残っていた。尖塔のシルエット、橋の鉄骨、無数の建物の残骸。そのすべてが、朝靄の中で不気味に浮かび上がっている。
ワルシャワは、沈黙していなかった。
街全体が、蠢いていた。
「……数が、数がおかしい」
ボリスの声が、初めてかすかに震えた。スターリングラードの廃墟でさえ、こんな光景は見たことがなかった。
ワルシャワの街路という街路、広場という広場、建物の屋上から地下鉄の入り口まで。あらゆる空間が、ゾンビで埋め尽くされていた。スモレンスクの比ではなかった。数千や数万ではない。数十万の死者たちが、かつての首都を覆い尽くし、ゆっくりと動き回っていた。
「……アントン」
「な、なんだよ」
「生きて帰れたら、俺がウォッカを奢る」
「お前がそんなこと言うの、初めて聞いた」
「二度目はない。だから——」
ボリスは小銃を握り直した。その手は、もう震えていなかった。
「死ぬなよ」
「……お前もな」
二人は顔を見合わせ、そして同時に微かに笑った。それが彼らの、戦いの前の決まり切った儀式だった。
◇ ◇ ◇
車内の各所でも、それぞれの準備が進んでいた。
歩兵車両では、グロモフが部下たちに最後の指示を飛ばしている。隣の車両からはドイツ兵たちの物々しい足音と、銃器の金属音が聞こえてきた。
「大尉。ドイツ兵が通路に来てます」
「わかってる。全員、驚くな。今日からは——」
グロモフは一呼吸置いて、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「共闘だ」
その言葉に、歩兵たちの間に微妙な空気が流れた。まだ誰もが納得しているわけではない。しかし命令は命令だった。それに、スモレンスクでの籠城戦、ミンスクでの幽霊列車戦、そして昨夜の防衛戦を通じて、彼らはすでに知っていた。ゾンビの前では、敵も味方もない。生きている者同士で助け合うしかないのだと。
「それと、おい、そこの若い兵士」
グロモフは通路の端にいたアントンに目を留めた。
「は、はい!」
「昨日の夜、ドイツ兵にパンをやったそうだな」
アントンはびくっと身をすくめた。叱られると思ったのだ。
「……すみません。勝手に——」
「いい判断だ。これからはパンも弾薬も、できる範囲で共有しろ。ただし——」
グロモフはアントンの肩をぽんと叩いた。
「ウォッカだけは、まだ回すな」
アントンは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔でうなずいた。
「了解です、大尉!」
その頃、戦車貨車の上では、最後の確認作業が行われていた。
フィリポフとベッカーは、三両の戦車の固定具を一つ一つ点検していた。ボルトの締め付け、鎖の張り、土嚢台座のひび割れの有無。どれか一つでも緩んでいれば、戦車が貨車から落ちる。そうなれば列車全体が脱線する。
「……持つと思いますか」
フィリポフが尋ねると、ベッカーはいつもの無表情で答えた。
「聞くな。もう走っている」
「そうでした」
二人は顔を見合わせ、それから同時に工具箱を閉じた。彼らにできることは、もう終わった。あとは戦車兵と、そして列車を信じるだけだ。フィリポフは、クズネツォフの手帳を胸ポケットにしまい込んだ。
「中尉。見ていてください」
◇ ◇ ◇
ティーガーIの車内。フォン・シュタインベルクは、砲手席に座っていた。
元々、ティーガーの指揮官席は戦車長用の席だが、今日、彼は自ら照準器を覗くことを選んだ。この特別な任務に、部下だけを送り込むわけにはいかなかった。彼は照準器のレンズを覗き込み、ワルシャワの街を見つめる。
ワルシャワ中央駅。その正面に広がる大通りには、文字通りゾンビの「壁」が形成されていた。数万、数十万のゾンビが互いにひしめき合い、駅前広場を隙間なく埋め尽くしている。密度が高すぎて、もはや一匹一匹の区別すらつかない。ただ一つの巨大な有機体のように、全体がうごめいていた。
「……すさまじいな」
彼の呟きに、操縦手のバウマンが答えた。彼はフォン・シュタインベルクの操縦手として、今日もティーガーの操縦席に座っていた。貨車の上という不安定な場所で、彼の繊細なレバーさばきが求められることはない。しかし万が一、戦車がずれた時のために、彼は待機していた。
「少佐。ぼく、ハンブルクでこんなの見たことないです」
「当たり前だ。誰も見たことがない。これが初めての光景だ。そして——」
フォン・シュタインベルクは照準器から目を離さずに言った。
「我々が、最後にこれを見る者になる」
伝声管から、ジューコフの声が響いた。
「目標、ワルシャワ中央駅前広場。距離、約千五百メートル。全砲門——」
バウマンは息を呑んだ。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗が滲む。しかし彼の足は、無意識のうちに操縦桿のペダルを踏みしめていた。いつでも動けるように。それが彼の戦い方だった。
「——撃て」
世界が、爆発した。
◇ ◇ ◇
ティーガーIの88mm砲が、咆哮を上げた。
衝撃波が戦車貨車全体を揺るがし、固定用の鎖が悲鳴を上げる。砲弾は一直線にワルシャワ中央駅前広場へと飛翔し、ゾンビの密集地帯の中心に着弾した。
炸裂。閃光。轟音。
着弾点から半径数十メートルのゾンビが、文字通り蒸発した。肉片と土砂と雪が混ざり合い、巨大な噴煙柱が立ち昇る。ティーガーの榴弾は、ただの砲弾ではない。重装甲の戦車を粉砕するために設計された徹甲榴弾だ。生身のゾンビ相手には、あまりにも過剰な威力だった。
「命中。次弾装填」
フォン・シュタインベルクの声は、驚くほど冷静だった。彼はすでに、次の目標を照準器の十字線に捉えている。
「IV号戦車、撃て!」
ハルトマン軍曹のIV号戦車が、75mm砲を火を噴いた。ティーガーより軽量の榴弾だが、それでも爆発の威力は圧倒的だった。駅の入り口付近に密集していたゾンビの群れが、爆風で吹き飛ばされ、建物の壁に叩きつけられて砕け散る。
「III号突撃砲、撃て!」
III号突撃砲は固定戦闘室ゆえに旋回が効かない。しかし、貨車の傾斜台座のおかげで射線は前方を向いていた。75mm砲が咆哮し、駅前広場を埋め尽くすゾンビの壁に風穴を開ける。
轟音。また轟音。三両の戦車砲が、次々と火を噴く。一発ごとに戦車貨車は激しく揺れ、連結器が軋み、貨車の車軸が悲鳴を上げた。
「このまま撃ち続ければ、貨車が——」
コズロフの懸念を、ジューコフは一言で遮った。
「貨車が壊れる前に突破する。それだけだ」
彼の目は、すでに前方の線路を見据えていた。戦車砲の斉射でゾンビの壁に大穴が開いた。しかしそれは時間の問題だった。すぐに穴は埋まる。ゾンビの数は無限に近い。突入するなら、今しかない。
「オルロフ爺! 全速前進! あの穴に突っ込め!」
「言われなくても!」
オルロフ爺はアクセルを全開にした。蒸気が唸り、ピストンが加速し、車輪が咆哮する。イワン二号は時速六十キロ、七十キロ、八十キロと速度を上げ、線路を食いちぎる勢いでワルシャワの街へと突入していった。
戦車砲の斉射と爆風、肉片と土煙が立ち込める戦場のただ中を、列車は突き進んだ。そして同時に、各車両の全銃眼から、DT機関銃と小銃の一斉射撃が始まった。
グロモフは客車の銃眼から身を乗り出し、線路脇に群がるゾンビを掃射した。彼の隣では、ドイツ兵のハルトマン軍曹がMP40を構えて同じ方向を撃っている。互いに言葉は交わさない。しかし、その射線は完璧に分担されていた。左側面はグロモフ隊。右側面はハルトマン隊。それは昨夜の防衛戦で、無言のうちに確立された共同戦線だった。
「大尉! 前方の貨車の陰に——!」
キリレンコの叫びに、グロモフは視線を前方に移した。線路の分岐点で、数体のゾンビが倒れた貨車の陰から飛び出してくる。
「撃て! あれは——」
その時、ドイツ兵側から一発の正確な狙撃が飛んだ。ハルトマン軍曹のMP40が短く連射され、ゾンビたちの頭を正確に撃ち抜いた。一匹も残さず。
「……やるな」
グロモフが呟くと、ハルトマンは無言でうなずいた。その口元には、ほんの少しだけ誇らしげな笑みが浮かんでいた。かつて敵だった兵士同士が、すでに互いの射撃の腕を認め始めている。
屋根の上では、カチューシャが今日も一人、戦場を見下ろしていた。
揺れる列車の屋根の上で、彼女はまるで地面に立っているかのように安定していた。両足は自然と振動を吸収し、身体は列車の動きを予測して動いている。それはもはや技術を超えた、彼女の存在そのものが射撃と一体化しているかのようだった。
「……多いなあ。でも、たくさんいるってことは、たくさん撃っていいってことだよね」
彼女の口元には、今日も微笑みが浮かんでいた。スコープの十字線が、ゾンビたちを次々と捕捉する。彼女にとって、戦場は射撃場だった。狙って、撃って、当てる。それだけ。簡単なことだった。
そう、彼女にとっては。
「四十五人目……四十六……あ、逃げた。でも無駄だよ」
逃げたゾンビは数秒後、後頭部を撃ち抜かれて雪の上に崩れ落ちた。
「四十七。あ、今のちょっと簡単すぎた。もっと遠いのをください、元帥」
もちろん彼女の声はジューコフに届かなかったが、彼女は気にしなかった。




