第13話:ポーランドの屍を越えて②
イワン二号は、雪の平原をひた走った。
ポーランド国境を越え、景色は少しずつ変わり始めていた。ロシアの針葉樹林から、ポーランドのなだらかな丘陵地帯へ。雪に覆われた畑と、点在する廃墟と化した農村。そのすべてが、かつてここで人々が営んでいた生活の痕跡を残していた。
しかし今、その痕跡の上を歩くのは、生者ではなく死者たちだった。
「前方にゾンビの群れ! 少なくとも百!」
見張りの声が伝声管を駆け巡った。ジューコフは即座に応じる。
「その数なら、跳ね飛ばせ! いつも通りだ」
「いつも通り」それがこの列車の新しい日常だった。ゾンビの群れに出会うことは、もはや異常事態ではない。日常業務の一部だ。
◇ ◇ ◇
ワルシャワまでの距離が、残り五十キロを切った頃。砲煙はますます濃くなり、砲声もはっきりと聞こえるようになってきた。
「同志元帥。敵の砲撃パターンが変わりました」
クラスノフ博士が伝声管越しに報告した。彼はいつものように、戦闘中でもデータを取っていた。ゾンビの行動パターンだけでなく、人間の砲撃パターンまでも、彼にとっては観察対象だった。
「どう変わった」
「これまでは散発的な防御砲撃でした。しかし先ほどから、砲門数が増え、かつ射撃のリズムが規則的になっている。これは——」
「陣地転換か、それとも反撃の準備か」
「おそらく後者です。ワルシャワ市内で、何らかの大規模な戦闘が始まろうとしている」
ジューコフは腕を組んだ。もしドイツ軍が反撃に出るなら、それは彼らにまだ余力があるということだ。そして、反撃のチャンスを狙っているということは、彼らはワルシャワに「守るべき何か」を持っている。
「速度を上げろ。ワルシャワまで一気に距離を詰める」
「了解。オルロフ爺、速度を——」
「もう上げてるよ!」
機関室からオルロフ爺の怒鳴り声が返ってきた。
「イワン二号、調子いいぜ! 六十キロは出る! ワルシャワまで一時間ってとこだ!」
「よし。総員、戦闘配置を維持したまま昼食を取れ。腹が減っては戦はできん」
ジューコフの、らしくない気遣いに、コズロフが微かに笑った。
「元帥、ご自身は」
「私は後でいい。まずは状況を——」
その時だった。
「前方に——人間! 人間です!」
見張りの叫びが、列車中に響き渡った。
◇ ◇ ◇
線路の先、約五百メートル。
雪の上に、一人の男が倒れていた。ドイツ軍の軍服。しかしボロボロで、あちこちが血に染まっている。彼は線路の上に這いつくばり、力なく手を振っていた。助けを求めているのか、警告しているのか、それとも——。
「減速! ただし停車はするな!」
ジューコフの命令で、イワン二号は徐々に速度を落とした。
「カチューシャ、周囲のゾンビを確認しろ。罠の可能性がある」
「はーい……確認した。周囲にゾンビはゼロ。動くものはあの人だけ」
「あのドイツ兵は」
「生きてる。でも、かなり弱ってる。体温が、私のスコープじゃわかんないけど、たぶんもう長くない」
ジューコフは決断した。列車はそのまま通過するのではなく、減速してその男のすぐ横に停車した。
「グロモフ。外に出ろ。ただし警戒は怠るな」
「了解」
グロモフはPPShを手に、数人の歩兵と共に慎重に列車を降りた。雪の上に倒れているドイツ兵に近づく。
「……聞こえるか。何があった」
男はうわごとのように何かを呟いていた。ドイツ語だ。グロモフにはわからない。
「ヴェーバーを呼べ」
ほどなくして、ヴェーバーが列車から降りてきた。彼は倒れている男の顔を見て、息を呑んだ。
「……国防軍の制服だ。第7装甲師団の所属章がある」
「なんと言っている」
ヴェーバーは耳を近づけ、男の言葉を聞き取った。断片的な単語の羅列。しかし彼には理解できた。
「『逃げろ……罠だ……ゾンビじゃない……』」
「罠?」
「『線路の先に……戦車が……砲身をこちらに……』」
その時だった。
遠くで、砲声が轟いた。しかしそれはワルシャワ市内からの砲声ではなかった。もっと近い。線路の前方、廃墟の陰からだった。
「伏せろ!」
グロモフが叫ぶと同時に、砲弾がイワン二号の前方数百メートルの地面に着弾した。雪と土が吹き上がり、爆風が列車を揺らす。
「警告射撃か? それとも外したのか?」
「わからん! だが次は当ててくるぞ!」
ジューコフは指揮車両から双眼鏡で前方を確認した。廃墟の陰に、戦車のシルエットが見える。ティーガーIだ。間違いない。88mm砲の長い砲身が、こちらに向けられている。
ジューコフはほんの一瞬だけ考え、それから伝声管を取った。
「全車両に通達。発砲はするな。これは交渉の始まりだ」
「交渉ですか。砲弾を撃ち込まれて」
コズロフの声は呆れていたが、同時にどこか楽しそうでもあった。
「相手も生き延びたいのだろう。死にたければ最初から当ててきたはずだ。警告射撃ということは、話を聞く余地がある」
「だといいですが」
ジューコフは双眼鏡を置き、軍帽を深く被り直した。
「コズロフ。白旗を用意しろ。それから——」
彼は一呼吸置いた。
「ウォッカだ。オルロフ爺から一瓶借りてこい。交渉に使う」
「……ウォッカを、ですか」
「ドイツ人も寒かろう」
コズロフは今度こそ、声を出して笑った。
「了解です。ただ、オルロフ爺が怒るかもしれません」
「『燃料だ』と言っていたやつだろう。ならば、交渉にも燃料が要る」
ジューコフの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
イワン二号は速度を落とし、線路の上で停止した。前方の廃墟の陰で、ティーガー戦車の砲身がまだこちらを睨んでいる。しかし、次の一発はまだ飛んでこなかった。
ワルシャワの戦いが、静かに幕を開けようとしていた。
◇ ◇ ◇
列車が停止した後、不思議な静寂が訪れた。
砲声も止み、風も凪ぎ、雪だけが静かに降り積もる。前方の廃墟からは、ティーガー戦車のエンジン音がかすかに聞こえるだけだった。
グロモフは倒れているドイツ兵を列車に運び込み、ペトロヴァに引き渡した。彼女はすぐに診察を始めた。
「低体温症と出血多量。それから——」
彼女は男の腕に巻かれた包帯を外し、傷口を見た。
「噛まれてる。ゾンビに。潜伏期間に入ってる。時間の問題です」
「……助からないのか」
「助けられません。たぶん。いいえ、今回は確実に。感染がもう広がりすぎてる」
ペトロヴァの声は静かだった。彼女は数多くの死を見てきた。そのたびに「たぶん」と言ってきたが、今回は違った。確実に、この男は死ぬ。そしてゾンビになる。
「痛みを和らげることはできます。最期を、楽にしてあげることも」
グロモフは倒れたドイツ兵の顔を見下ろした。まだ若い。せいぜい二十代前半だろう。スターリングラードで戦ったドイツ兵たちと同じ顔だ。疲れ切り、恐怖に震え、それでも何かを伝えようとした。
「……頼む」
ペトロヴァはうなずき、注射器を手に取った。彼女は手際よく鎮静剤を投与し、男の手を握った。
「大丈夫。もう怖くない。ゆっくり眠って」
男の呼吸が徐々に穏やかになり、そして静かに止まった。彼が完全に停止する前に、ペトロヴァはもう一本、心臓を止めるための注射を打った。ゾンビ化を防ぐための、最後の処置だった。
「……いつも思うんです」
ペトロヴァは立ち上がり、手を拭きながら言った。
「敵でも味方でも、死ぬ時はみんな同じ顔をする。怖がって、誰かの名前を呼んで、そして静かになる。馬も牛もそうです。人間も、同じです。哺乳類はみんな——」
彼女は言葉を切り、深呼吸した。
「すみません。たぶん、少し疲れてます」
グロモフは黙って彼女の肩を軽く叩いた。彼も疲れていた。全員が疲れていた。しかし、まだ先は長い。
◇ ◇ ◇
指揮車両で、ジューコフは白旗を手に取り、コズロフと顔を見合わせた。
「行くか」
「ええ。行きましょう」
「ヴェーバーも連れて行く。通訳と、それから——」
「『私は親衛隊ではない』という証明ですか」
「そうだ」
ジューコフは白旗を小脇に抱え、指揮車両を降りた。その背中を、コズロフとヴェーバーが追う。三人は雪の上を歩き、停止したイワン二号の前方へと進んだ。
前方の廃墟から、数人のドイツ兵が姿を現した。中央に立つのは、長身で青い目の男。軍服はボロボロだが、背筋は驚くほどまっすぐに伸びている。プロイセン貴族の気品が、その立ち姿だけで伝わってきた。
「私はマクシミリアン・フォン・シュタインベルク少佐。第7装甲師団、第25戦車連隊、第一中隊指揮官だ」
彼のロシア語は、ヴェーバーほど流暢ではなかったが、十分に通じるものだった。
「そちらはソ連軍だな。何の用だ」
ジューコフは白旗を掲げたまま、ゆっくりと前に進んだ。二人の距離が、五十メートル、三十メートル、十メートルと縮まる。
「ゲオルギー・ジューコフ。ソ連邦元帥だ」
フォン・シュタインベルクの目が、わずかに見開かれた。ジューコフの名を知らぬ軍人など、東部戦線にはいない。
「……元帥が自ら前線に? しかも白旗を持って?」
「交渉に来た。お前たちの戦車を、俺の列車に積ませろ」
「——なに?」
フォン・シュタインベルクの顔に、怒りと困惑が同時に浮かんだ。彼の隣に立つ若い戦車兵、エーリッヒ・バウマン上等兵が、緊張した面持ちでジューコフを見つめている。
「我々の戦車を、貴殿らの列車に? それはつまり——」
「共闘だ。ゾンビ相手にな」
ジューコフの声は平坦だった。しかしその一言一言が、奇妙な重みを持って冬の空気に沈殿していく。
「私が、ソ連軍と共闘だと?」
「嫌か」
「……なぜ、そうなる」
「我々の目的はベルリンだ。ゾンビの発生源を破壊する。お前たちの目的は生き延びることだろう。だったら利害は一致している」
フォン・シュタインベルクはしばらく沈黙した。彼の脳裏には、部下たちの顔が浮かんでいた。百名近い将兵。彼らはもう何週間もワルシャワに籠城し、弾薬も食料も底をつきかけている。
「……条件がある」
「言え」
「私の部下を、一人も見捨てるな。全員を列車に乗せろ。負傷者も、戦えない者も、全員だ」
「当たり前だ」
ジューコフの返事は即答だった。迷いは一ミリもなかった。
その即答に、フォン・シュタインベルクは一瞬息を呑み、それから初めて、彼の口元がわずかに緩んだ。それは笑みと呼ぶにはあまりに微かだったが、確かに彼の表情を変えた。
「……あなたは変わったソ連の将軍だ」
「元帥だ」
「元帥。変わった元帥だ」
二人は睨み合い、それから同時に、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
コズロフがタイミングを見計らって、持っていたウォッカ瓶を差し出した。
「少佐。交渉成立の——まあ、なんといいますか」
「ウォッカか」
「ええ。飲みますか」
フォン・シュタインベルクはウォッカ瓶を見つめ、それからジューコフを見た。ジューコフは無言でうなずく。彼は瓶を受け取り、一口だけ含んだ。プロイセン貴族としては破格の、戦場の礼儀だった。
「……悪くない。この寒さでは、酒も燃料だ」
「それをうちの機関士に言ってやってください。『ウォッカは燃料だ』と常々——」
「コズロフ、余計なことは言わなくていい」
ジューコフの言葉に、その場にいた全員が、ほんの少しだけ笑った。敵同士が、同じウォッカを飲み、同じ寒さに震え、そして同じ敵と戦う。
それが、ワルシャワでの奇妙な共闘の始まりだった。
◇ ◇ ◇
その夜、イワン二号の周囲に、ドイツ軍の野営地が設営された。
まだ同じ列車には乗っていない。ソ連兵は列車の中、ドイツ兵は列車の周囲にテントを張った。それはジューコフとフォン・シュタインベルクの間で交わされた、暗黙の了解だった。
まだ、同じ屋根の下で眠るには、あまりに多くの血が流されすぎていた。
しかしそれでも、同じ空の下にいる。それが、最初の一歩だった。
明日、彼らは戦車貨車の連結工事を始める。それはかつてない規模の工事になるだろう。敵同士だった工兵たちが、同じ工具を手に取り、同じ列車のために働く。想像するだけで、気が遠くなるような光景だった。
しかし、ジューコフはすでに次の一手を考えていた。彼の頭の中には、戦車を斜めに傾けて積載する図面が、少しずつ形を成し始めている。
そしてオルロフ爺は、機関室で一人、新しい仲間になる戦車たちを見つめながら、ウォッカをもう一口だけ含んだ。彼の手には、クズネツォフの製造プレートが握られていた。「走れ」と刻まれた文字は、今夜も変わらず彼を見つめている。
「……わかってるよ」
雪が、静かに降り積もるワルシャワの夜。戦車と列車が、同じ線路の上で、朝を待っていた。




