第13話:ポーランドの屍を越えて①
夜明け前のミンスク操車場は、死んだ街の静寂に包まれていた。
篝火がくすぶり、見張りの兵士たちが寒さに震えながら持ち場に立っている。それ以外に動くものはない。廃墟と化したベラルーシの首都は、雪に覆われて白く沈黙していた。時折、遠くの通りをゾンビが一匹、二匹とよろめき歩くのが見えたが、列車までは近づいてこなかった。寒さが彼らの動きを鈍らせている。自然の味方は、今日も彼らの側にあった。
機関室で、オルロフ爺は一睡もせずにイワン二号の点検を続けていた。
彼の手には工具箱と、煤だらけの雑巾。額に巻いた包帯からは、かすかに血が滲んでいる。幽霊列車との衝突でハンドルに頭をぶつけた傷だ。ペトロヴァが縫合を申し出たが、彼は「こんなもん唾つけときゃ治る」と追い返していた。
「……ここ、リベットが二本緩んでる。このへこみは叩いて直せるな。蒸気管は——」
彼は機関車のボイラー周りを丹念にチェックしながら、ぶつぶつと独り言を続けていた。彼のポケットの中で、初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートが、作業のたびにチャリチャリと小さく鳴った。
「イワン二号。お前、幽霊に体当たりしてまだ走ってる。それだけでもう、文句なしにすげえ機関車だ」
彼は計器盤に手を当て、まだわずかに温かい金属の感触を確かめた。
「だがな、まだ傷が残ってる。ワルシャワまで持つか?」
蒸気がシュウ、と小さく漏れた。彼はそれを返事だと受け取った。
「そうか。持つか。ならいい」
オルロフ爺はウォッカの小瓶を取り出し、一口だけ含んだ。酒の勢いで最後のリベットを締め上げ、満足そうにうなずく。窓の外では、東の空が白み始めていた。
「そろそろ時間だな」
◇ ◇ ◇
指揮車両で、ジューコフはすでに起きていた。というより、彼はほとんど眠っていなかった。
机の上には地図が広げられ、その上にいくつもの書き込みがされている。ミンスクからワルシャワまで、約五百キロ。ドイツ式標準軌の線路は、ここから先も続いているはずだ。しかし問題は線路ではない。線路の周りにいるものだ。
「同志元帥」
コズロフがマグカップを持って入ってきた。紅茶ですらない、ただの湯だ。茶葉はとうの昔に底をついていた。それでも温かい飲み物があるだけ、この状況では贅沢だった。
「乗組員の状況は」
「重傷者四名はペトロヴァ軍医の治療で安定しています。歩行は難ですが、命に別状はありません。軽傷者の大半も復帰可能です」
「死者は」
「ゼロです。幽霊列車戦での死者は、ゼロのままです」
ジューコフは湯を一口すすった。その顔には、安堵も喜びも浮かんでいなかった。ただ「事実」を確認しただけだ。
「補給物資は」
「ミンスクの廃墟から鹵獲できた物資は限られています。弾薬は幽霊列車戦でかなり消耗しました。特にDT機関銃の弾薬残量が心許ない。機関銃弾は現地調達できませんでした。食料はあと一週間分。それから——」
コズロフは手帳をめくった。
「ウォッカが底をつきかけています」
ジューコフは眉をひそめた。
「ウォッカは物資ではない。燃料だ。オルロフ爺に伝えろ。次の補給地点で最優先で調達する、と」
「……了解です。『ウォッカは燃料』と、そのまま伝えます」
「そうしろ」
コズロフは手帳にメモを取りながら、微かに口元を歪めた。この元帥は、本気でウォッカを戦略物資だと思っている。そしておそらく、間違っていない。
「それと、コズロフ」
「ワルシャワまでの線路情報は」
「ここから先はヴェーバー中尉の情報が役に立ちます。彼はポーランド方面の鉄道網にも詳しい。国防軍情報部時代の資料だそうです」
「呼べ」
◇ ◇ ◇
ヴェーバーが指揮車両に入ってきた時、彼の姿勢はスモレンスクで初めて会った時よりも、ほんの少しだけ自然になっていた。
まだ完全に打ち解けたわけではない。ソ連兵の中には彼を「ファシスト」と呼び続ける者もいる。銃口を向けられはしなくなったが、食堂車で彼が座るのはいつも隅の席だった。しかし少なくとも、指揮車両に呼ばれて「情報を提供する」こと自体は、この列車における彼の役割として定着しつつあった。
「元帥」
ヴェーバーはかしこまった敬礼をした。ソ連式の敬礼ではない。ドイツ国防軍式の、かかとを揃えて背筋を伸ばす敬礼だった。彼はそれを変えるつもりはなかった。それが彼の誇りであり、そして「私は親衛隊ではない」という無言の主張でもあった。
「ワルシャワまでの線路状況について、情報を提供します」
「話せ」
「ミンスク=ワルシャワ間の鉄道は、一九四一年のバルバロッサ作戦以降、ドイツ軍が補給路として整備した区間です。軌間は全区間標準軌。線路状態は比較的良好なはずです。しかし——」
ヴェーバーは地図の上に指を置いた。
「問題はポーランド国境を越えたあたりからです。ワルシャワ近郊は激戦地でした。ソ連軍の反攻、ドイツ軍の撤退、そして——」
「ゾンビか」
「はい。ワルシャワの戦略的価値を考えれば、あの街はゾンビの密度が非常に高いと推測されます。スモレンスクの比ではないかと」
ジューコフは腕を組んだ。スモレンスクの比ではない。それはつまり、数千どころか万単位のゾンビがいる可能性があるということだ。
「ワルシャワ市内に生存者は」
「わかりません。しかし——」
ヴェーバーは少しだけ言いよどんだ。
「言え」
「ワルシャワには、国防軍の残存部隊がいる可能性があります。第7装甲師団の一部が、撤退しきれずに籠城中という断片的な通信を、私が撃墜される前に傍受しました」
「第7装甲師団」
ジューコフの目が細められた。
「あの『幽霊師団』か」
「ご存じで」
「知っている。フランス戦から東部戦線まで、戦場を転々としている精鋭だ。それがワルシャワに?」
「確証はありません。しかしもし生存していれば——」
「ティーガー戦車を持っている可能性がある」
「はい」
ジューコフは地図の上のワルシャワをじっと見つめた。ティーガーI重戦車。ドイツ軍最強の戦車だ。もしそれが稼働状態で残っていれば、そして鹵獲できれば、この列車の戦力は飛躍的に向上する。
「……敵か、味方か」
「どちらでもありません。『生き延びたい者同士』です」
ヴェーバーの言葉に、ジューコフは初めて彼の顔をまっすぐに見た。
「お前は国防軍の将校だ。同胞がワルシャワにいるなら、どう動く」
「私は、すでにこの列車に乗っています。私の任務は情報を提供すること。それ以上でも以下でもありません」
「質問に答えていない」
「……同胞を見捨てたくはありません。しかし、ゾンビを止めることのほうが、優先順位は上です」
ジューコフはしばらくヴェーバーを見つめていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
「よし。ワルシャワに到着次第、偵察隊を出す。生存者がいれば——」
「いれば?」
「交渉する」
ジューコフはそれだけ言って、地図に向き直った。
◇ ◇ ◇
午前六時。夜が完全に明ける前に、イワン二号はミンスク操車場を発った。
汽笛が鳴り、蒸気が白く噴き出し、車輪が軋みながら回り始める。オルロフ爺は操縦桿を握り、前方の線路を見据えた。速度は時速五十キロ。まだ全快とは言えないが、走るには十分だ。
客車の中では、乗組員たちがそれぞれの持ち場についていた。歩兵たちは銃眼の前に陣取り、カチューシャは屋根の上でスコープを覗き、ペトロヴァは負傷者の容態を確認し、コミッサロフは手帳に「ミンスク出発、〇六〇〇」と記録した。
神父イヴァンは負傷者の枕元で静かに祈りを捧げ、クラスノフ博士は幽霊列車戦のデータを整理しながら「このデータがあれば論文が——」と誰も聞いていない独り言を続けていた。
戦闘配置にはついていないものの、いつでも対応できる。それが彼らの日常だった。
いつ戦闘が始まってもおかしくない。いつ誰かが死んでもおかしくない。
しかしそれでも、彼らは前に進む。それがこの列車の、唯一のルールだった。
◇ ◇ ◇
歩兵車両の最後尾。アントンとボリスは今日も見張り台に座っていた。
「なあ、ボリス」
アントンがマフラーに顔を埋めながら口を開いた。寒さで声が震えている。
「ワルシャワって、どんな街なんだ?」
「知らん。行ったことない」
「戦前はポーランドの首都だってさ。綺麗な街だったって、学校で習った」
「学校で習ったことは、だいたい戦争で消える」
アントンは少しむくれた。
「……お前、たまには夢のある話をしろよ。幽霊列車だって倒したんだぜ。俺たち、ちょっとは強くなったんじゃないか?」
ボリスは答えなかった。いつものことだった。アントンは気にせず続ける。
「俺さ、ゾンビになって死ぬのは嫌だけど、でもこの列車に乗ってなかったら、とっくに死んでたと思うんだ。スモレンスクで、あるいはモスクワで。だから——」
「おしゃべりはそこまでだ」
ボリスが突然、アントンの言葉を遮った。彼の目は、線路の前方を見つめている。その目には、スターリングラードで培われた戦場の本能が宿っていた。
「……何かいるのか」
「見ろ」
ボリスが指さした方向。地平線の彼方に、黒い煙が上がっている。一本ではない。何本も。それが街全体を覆うように立ち昇り、冬の曇り空に溶け込んでいた。
「火事か?」
「違う。煙の色が違う。あれは——」
「砲煙だ」
アントンは目を凝らした。確かに、ただの火事ではない。煙の中に、一瞬だけオレンジ色の閃光が走った。遠雷のような低い音が、数秒遅れて届く。
「誰かが戦ってる……!」
「人間だ。ゾンビは大砲を撃たない」
ボリスはすでに小銃を手に取っていた。彼の顔から表情は消えていたが、その目にはかすかな熱が宿っていた。
「生きてる奴がいる。ドイツ軍か、それとも——」
「わからん。でも——」
アントンは双眼鏡を手に取り、煙の方向を覗いた。
「俺、ちょっと嬉しいかも。生きてる人間がいるって、それだけで」
「喜ぶのは確認してからだ。敵かもしれない」
「敵でも、生きてるなら話ができる。ゾンビよりずっといい」
アントンの声は、震えながらも、どこか明るかった。ボリスは何も言わなかったが、彼の口元がほんの少しだけ緩んだ。否定しなかった。それが彼の同意だった。
◇ ◇ ◇
前方の異変は、すぐに列車全体に伝わった。
「同志元帥! ワルシャワ方面に砲煙を確認! 少なくとも三箇所! 戦闘中と見られます!」
コズロフの報告に、ジューコフは双眼鏡を手に取った。前方の地平線。確かに、煙が上がっている。それも、広範囲にわたって。都市全体が戦場になっているようだった。
「速度を維持しろ。ただし警戒を強化。砲兵隊が生きているなら、我々も標的になる可能性がある」
「了解。全車両に通達します」
ジューコフは地図を広げた。ワルシャワまで、あと約百キロ。数時間で到達する距離だ。
「ヴェーバーの言っていた第7装甲師団の可能性は?」
「まだ断定できません。しかし、あれだけの砲撃を継続して行える部隊は限られています。単なる残存兵の抵抗ではなく、組織的な防衛戦闘です」
「鹵獲できる戦力ならいいが」
「敵対された場合は?」
ジューコフは少し考えてから、言った。
「戦う。ただし、それは最後の手段だ。まずは話をする」
「ドイツ軍と、ですか」
「ゾンビに国境はない。それは彼らもわかっているはずだ」
ジューコフは双眼鏡を置き、伝声管のスイッチを入れた。
「総員に通達。ワルシャワに生存者あり。ドイツ軍残存部隊の可能性が高い。交戦は許可しない。ただし、自衛のための射撃は例外とする。全員、戦闘準備。いつでも動けるようにしておけ」
「——以上だ」
伝声管のスイッチが切られた後、車内に緊張が走った。
ドイツ軍。つい最近まで殺し合っていた相手だ。スモレンスクで、スターリングラードで、モスクワ郊外で。乗組員の多くは、ドイツ軍に家族や戦友を殺されている。
グロモフの拳が、無意識に握りしめられた。彼はスモレンスクで部下のドミトリーを失った。直接ドイツ軍に殺されたわけではない。しかし、そもそもゾンビなどというものが発生しなければ、彼は死ななかった。戦争がなければ、ゾンビも生まれなかった。つまり——。
「大尉」
キリレンコが静かに声をかけた。彼の左手はまだ包帯で吊られているが、サーベルは腰に帯びていた。予備のサーベルだ。刃こぼれした前のものは、まだ研ぎに出していない。
「手が震えてますよ」
「……寒さのせいだ」
「そうですか。じゃあ、俺も寒さのせいで右手が震えてます」
キリレンコはサーベルの柄に手を置きながら、微かに笑った。
「でもまあ、元帥が『話をする』って言うなら、まずは話を聞きましょう。剣を抜くのは、それからでも遅くない」
「……お前がそれを言うか。いつも一番に飛び出して斬りかかるくせに」
「幽霊列車で懲りました。斬っても効かない相手がいるってことが、よーくわかりましたので」
キリレンコは包帯を巻いた左腕を軽く持ち上げて見せた。
「それに、元帥は今まで間違ったこと言ったことないですよ。無茶は言いますけど」
グロモフはキリレンコの顔を見て、それから小さく笑った。
「……そうだな」
彼は拳を開き、深呼吸した。
「全員、聞いたな。ドイツ軍が相手でも、先に撃つな。ただし、撃たれたら話は別だ。いいな」
歩兵たちは無言でうなずいた。彼らの目には、まだ敵意が残っている。しかし同時に、命令には従うという意思もあった。
◇ ◇ ◇
食堂車の隅で、ヴェーバーは一人、窓の外を見つめていた。
遠くの地平線に上がる砲煙。あれが国防軍のものかどうかは、まだわからない。しかし、もしそうなら——。
彼は手帳を取り出し、何かを書き込もうとした。しかしペンが止まった。何を書けばいいのか、自分でもわからなかった。
国防軍の同胞が今も戦っている。自分はソ連の列車に乗って情報を提供している。もし再会したら、自分はなんと呼ばれるだろう。「裏切り者」か、それとも——。
「中尉」
声がして振り返ると、神父イヴァンが立っていた。彼の左手には、いつもの十字架が握られている。
「何か」
「顔色が優れませんが」
「……自分の立場を考えていました」
「この列車での立場ですか」
「はい。そして、これから出会うかもしれない同胞に対しての立場も」
イヴァンは少し考えてから、ヴェーバーの向かいの席に座った。
「私はね、中尉。ずっと隠れて生きてきました。司祭であることを隠し、信仰を隠し、自分が誰であるかさえ隠して。でも、この列車に乗ってからは、隠すのをやめました」
「なぜです」
「隠すより、生き延びることのほうが大事だと気づいたからです。そして、自分が誰であるかを認めてくれる人たちがいたから」
ヴェーバーはイヴァンの顔を見た。神父は穏やかに微笑んでいる。
「あなたの立場は確かに難しい。しかし、あなたはこの列車で、すでに何度も情報を提供し、我々を助けてくれました。それは事実です。誰が何と言おうと」
「……それは」
「だから、もし同胞に『裏切り者』と呼ばれても、気にすることはありません。あなたはあなたの信じることをした。それで十分です」
ヴェーバーはしばらく沈黙していた。それから、静かにうなずいた。
「……ありがとう、と言うべきでしょうか」
「いいえ。私の言葉は無料ですから」
イヴァンは立ち上がり、振り返らずに去っていった。
ヴェーバーは手帳を開き、そして今度は、迷わずペンを走らせた。
何を書いたのかは、誰にもわからない。しかし彼の手は、さっきまでよりずっと落ち着いていた。




