第12話:複線の決闘——そして霧の彼方へ②
指揮車両。ジューコフは窓辺に立ち、雪原に消えた幽霊列車の痕跡を見つめていた。
「コズロフ」
「はい」
「被害を報告しろ」
コズロフは手帳を開いた。彼の眼鏡にもヒビが入っている。
「戦死者、ゼロ。重傷者四名、軽傷者十数名。列車の損傷、側面装甲の広範囲にわたるへこみと破断。窓ガラスのほとんどが破損。連結器に歪み。放水ノズルは使用不能。しかし、走行には支障ありません」
「死者ゼロか」
「はい。信じられませんが」
「信じろ。事実だ」
ジューコフは少しだけ沈黙した。それから、窓の外の雪原を見つめたまま言った。
「あの幽霊列車は、破壊されたのか」
その問いは、伝声管を通してクラスノフ博士に届いた。
「——いいえ」
クラスノフの声は、いつになく静かだった。興奮ではなく、畏怖を含んだ冷静さ。
「あれは退いただけです。分解して霧の中に消えましたが、本質的に『破壊』されたわけではありません。鋼鉄に宿った魂は、おそらく、まだ存在しています。いつか、どこかで、再び集まり、再び形を成すでしょう」
「いつだ」
「わかりません。しかし、少なくとも、今回のような形で現れるには、相応の時間がかかるはずです。あれだけのダメージを与えたのですから」
「……つまり、倒したわけではない。時間を稼いだだけだ」
「そうなります。しかし元帥、それはどんな戦いでも同じことではありませんか」
クラスノフの声が、ふといつもの熱を取り戻した。
「敵を完全に消滅させることなど、そもそも不可能です。我々ができるのは、前に進む時間を、一日でも、一時間でも、一分でも多く確保すること。そう思いませんか」
ジューコフは答えなかった。しかし彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。彼はクラスノフの言葉を否定しなかった。それが、彼なりの同意だった。
「……また来る。その時までに、倒し方を考えておけ」
「もちろんです! 今回のデータがあれば、論文が五本は書けます! いや、六本!」
「論文は後だ。まずは生き延びろ」
ジューコフは伝声管を切り、地図を見下ろした。ミンスクまであとわずか。
「コズロフ。ミンスクに到着次第、一時停車して補給と修理を行う。それから、ワルシャワに向かう」
「了解。ワルシャワまで約五百キロ」
「遠いな」
「ええ。でも前に進むだけです」
二人は顔を見合わせ、微かに笑った。その笑みは、もはやこの旅の日常だった。
◇ ◇ ◇
機関室。オルロフ爺は、操縦桿を握ったまま動けなかった。
衝突の衝撃で、彼はハンドルに頭をぶつけ、額から血を流していた。しかし彼は、それに気づいていなかった。彼の意識のすべては、まだ「運転」にあった。
「……終わったのか」
彼の声は掠れていた。
計器盤の上で、初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートが、相変わらず小さく震えている。それを見て、彼は初めて自分が生きていることを実感した。
「イワン二号。お前、無事か」
蒸気がゆっくりと漏れる音。ピストンはまだ動いている。車輪は回っている。速度は少し落ちたが、イワン二号は、まだ走っていた。
「……そうか。お前は大丈夫か」
彼はウォッカ瓶を探した。どこかに飛んでいったらしい。仕方なく、ポケットの予備の小瓶を取り出し、一口含んだ。アルコールが傷に染みたが、それも悪くなかった。
「なあ、イワン二号。初代のイワンはよ、地面の上を走って壊れた。お前は幽霊に体当たりして、まだ走ってる。どっちがすごいか——」
彼は操縦桿を軽く叩いた。
「比べるもんじゃねえな。どっちも、最高の機関車だ」
彼はちらりと窓の外を見た。幽霊列車が消えた方角。もう何も見えない。しかし彼は、もう一度、会うことがあるだろうと思っていた。機関士の勘だった。
「……次に会ったら、今度こそ完全に止めてやる。約束だ」
汽笛が、静かに鳴った。返事のように。
◇ ◇ ◇
屋根の上では、カチューシャが仰向けに寝転んで空を見上げていた。
彼女の対戦車ライフルは、薬室が開いたままで横たわっている。弾切れだ。彼女はこの戦闘で、持っていた全弾を使い切った。
「……楽しかった」
彼女は誰に言うともなく呟いた。空はまだ曇っていたが、霧は晴れ始めている。雲の切れ間から、冬の弱々しい太陽が顔を覗かせていた。
あの幽霊列車の狙撃は、彼女にとって新しい体験だった。相手は死んでいる。しかし確かに「そこに」いて、彼女の弾丸に反応し、銃座が沈黙する。キルカウントには数えられない。そもそも、すでに死んでいる相手を「キル」とは呼べない。
「……あ、そっか」
彼女は何かを思いついたように起き上がった。
「今日はノーカウントだ。幽霊はもう死んでるから。次からはゾンビだけ数えよう」
彼女は立ち上がり、スコープを覗いた。前方には、ミンスクの廃墟が近づいている。
「……次は何がいるかな」
彼女の口元には、いつもの微笑みが戻っていた。
◇ ◇ ◇
貨車の一角。ペトロヴァは負傷者の治療に追われていた。
「動かないでください。縫います。あ、これ人間用の針じゃないな。馬用だ。でも大丈夫。針は針です。たぶん」
「たぶん!?」
「たぶんです。痛いけど我慢してください。馬はもっと我慢してます」
彼女は手際よく傷を縫合しながら、時折患者の顔を覗き込んで微笑んだ。その笑顔が逆に怖いと言われることもあるが、彼女の治療は確実だった。
今回の戦闘で重傷を負った兵士の一人が、彼女に尋ねた。
「軍医さん。幽霊列車に勝ったんですか、俺たち」
ペトロヴァは少し考えてから、答えた。
「勝った、というより、退けました。でも、それでいいんです。戦争では、勝つことより、生き延びることのほうが難しい。たぶん」
「たぶん、ですか」
「たぶんです。でも、みんな生きてる。それだけで十分です」
彼女は包帯を巻き終わり、患者の肩を軽く叩いた。
「さあ、安静にしててください。次の戦闘までは、数日は空くと思います。たぶん」
患者は苦笑いしながら目を閉じた。たぶん、大丈夫。その根拠のない安心感が、不思議と心に沁みた。
◇ ◇ ◇
イワン二号は、速度を落としてミンスクの廃墟に進入した。
ベラルーシの首都もまた、スモレンスクと同じ運命を辿っていた。崩れた建物、燃え尽きた車両、そして通りを彷徨うゾンビの群れ。しかし今日は、彼らにとっても休息の日だった。幽霊列車との戦いで、乗組員たちの疲労は頂点に達していた。
ジューコフの指示で、イワン二号はミンスクの操車場に停車した。周囲の安全を確保した上で、数時間の休息と補給、そして応急修理が行われることになった。
グロモフは歩兵を配置し、見張りを立てた。キリレンコは折れたサーベルの代わりになる武器を物色しに行った。ペトロヴァは負傷者の治療を続け、クラスノフは早速ノートを広げて幽霊列車のデータを整理し始めた。神父イヴァンは戦死者がいないことに感謝の祈りを捧げ、コミッサロフは「聖水の戦術的使用に関する報告書」という、前代未聞の文書の草案を書き始めた。
そしてオルロフ爺は、機関室で一人、イワン二号の傷を点検していた。
「……ここがへこんでる。このリベットは交換だな。蒸気管は、大丈夫か。よく耐えた」
彼は手を動かしながら、ポケットの中のボルトと製造プレートに話しかけていた。
「見たか、イワン。クズネツォフ。お前たちのイワン二号は、幽霊に勝ったんだぜ」
彼は少し笑って、ウォッカを一口。
「まぁ、初代のイワンだって、レールのない地面を走った。どっちもすげえ」
彼は計器盤を軽く叩いた。
「要するにだ。俺が機関士をやってる列車は、みんなすげえんだ」
◇ ◇ ◇
指揮車両で、ジューコフは一人、娘たちの手紙を取り出していた。
胸ポケットからそっと紙を広げる。インクが滲み、折り目が擦り切れかけている。短い文章。しかし彼にとっては、どんな軍事報告書よりも重い言葉だった。
「パパは前に進んでいる。まだ止まらない」
彼は呟き、手紙をそっと胸に戻した。それから立ち上がり、窓の外を見る。ミンスクの廃墟の向こうに、夕陽が沈もうとしている。
「ワルシャワまで、五百キロ。それから……ベルリン」
彼の目は、すでに次の目的地を見据えていた。後退の選択肢は、やはりなかった。
◇ ◇ ◇
夜が訪れた。
ミンスクの操車場。警戒の篝火が焚かれ、交代制の見張りが立てられている。列車は静かに停車し、乗組員たちはそれぞれの休息を取っていた。
機関室で、オルロフ爺は窓の外の星空を見ながら、一人でウォッカを飲んでいた。
「……なあ、イワン二号」
彼は話しかける。
「あの幽霊列車、また来るんだろ。博士が言ってた。退いただけだって」
蒸気が、かすかに揺れた。
「次は、どうやって倒す。聖水だけじゃ足りないだろう。もっと何か、魂ごと吹き飛ばすような、そんな手がいる」
彼は初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートを手に取った。
「まあ、考えるのは博士と元帥の仕事だ。俺は走るだけだ」
彼はウォッカを一口含み、そっと機関車の床に数滴垂らした。初代イワンに。クズネツォフに。そして、あの幽霊列車の機関士席に座っていた、名も知らぬドイツ人機関士に。
「……次は、楽にしてやるからな」
機関室に、静かな汽笛が響いた。それは子守唄のように優しく、しかし確かに前に進む意志を秘めた音だった。
◇ ◇ ◇
ミンスクの夜は、更けていく。
明日、彼らはワルシャワへ向けて出発する。そこには新たな戦いが待っている。
しかし今夜だけは、彼らは生きている。
幽霊列車は退いた。死者は出なかった。それだけで、今夜は十分だった。
列車は、静かに眠る。だがその心臓、蒸気機関は、まだ冷めていなかった。
石炭がくすぶり、蒸気がわずかに漏れ、いつでも走り出せる状態を保っている。それはまるで、眠りながらも次の戦いに備える戦士のようだった。
そして、機関室の片隅で。
初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートが、かすかな振動に共鳴して、チャリ、と小さく鳴った。
まるで「よくやった」と。
あるいは「次も頼む」と。
そう言っているかのように。




