第12話:複線の決闘——そして霧の彼方へ①
複線区間の入り口が、霧の中から浮かび上がった。
線路が一本から二本に分かれる分岐点。その向こうに、二本の鉄路が白い平原をまっすぐ西へと延びている。右手が本来の走行線。左手が追い越し用の待避線。今、幽霊列車はイワン二号の左側を並走している。つまり、複線に入れば、幽霊列車は隣の線路に自然と乗り移る。
「今だ、入れ!」
ジューコフの叫びと同時に、イワン二号は複線区間の右手の線路に飛び込んだ。そして幽霊列車は、物理法則に従うかのように左手の線路に移動した。同じ線路に二つの列車は乗れない。それは幽霊列車とて例外ではないらしい。あるいは、幽霊列車自身が「線路の占有権」を無意識に守っているのか。どちらにせよ、これで二つの列車は並走状態に入った。
「カチューシャ! 前方の切り替えポイントを狙撃しろ!」
「はーい!」
屋根の上で、カチューシャは対戦車ライフルの銃身を前方に向けた。揺れる列車の上。視界を遮る霧。そして標的は数百メートル先の、小さなレバーの安全ロックピン。
彼女は笑っていた。
「楽しいなあ。こんなに難しい射撃、久しぶり」
彼女の目が、スコープの向こうでピントを合わせる。風向き、湿度、気温、列車の揺れの周期、レバーまでの距離。それらすべての情報が、彼女の脳内で一つの弾道に収束していく。
引き金。
対戦車ライフルの重い銃声が轟き、14.5mm弾が白い弧を描いて飛翔する。約0.4秒後、前方の切り替えポイントで、小さな金属音が響いた。
安全ロックピンが、正確に弾き飛ばされていた。
ロックの外れたレバーは、自重でゆっくりと倒れ、ポイントが切り替わる。右手の線路が、幽霊列車の走る左手の線路へと、合流する形に変わった。
「命中!」
コズロフの確認の叫び。
「オルロフ爺、行け!」
機関室で、オルロフ爺はすべての操作を一気に行った。ブレーキを部分開放し、アクセルを全開にし、そして、蒸気圧を瞬間的に左側のシリンダーに集中させる。イワン二号の車体が、ありえない方向にねじれ始めた。
金属の悲鳴。
車輪がレールの上で横滑りし、火花のカーテンが霧を切り裂く。列車全体が左に傾き、連結器が軋み、客車の床が信じられない角度で傾斜する。乗組員たちは壁や座席や、あるいは互いにしがみついた。
「イワン二号! いける! いけるぞ!」
オルロフ爺の叫びは、歓喜でも恐怖でもなく、機関士としての確信だった。彼は感じていた。車輪とレールの間で起きている物理現象のすべてを。金属が耐えられる限界と、それをほんのわずかに超えていることと、それでも列車がバラバラにならずに動き続けている奇跡を。
彼のポケットで、初代イワンのボルトとクズネツォフの製造プレートが、チャリチャリと音を立てていた。まるで「俺たちもここにいる」と叫ぶように。
「わかってる! 見ててくれ! これが——」
イワン二号は、横滑りしながら隣の線路へと侵入した。幽霊列車の真正面。いや、真正面ではない。側面。文字通り、列車を横にして幽霊列車に迫る形だった。
「放水!」
ジューコフの命令と同時に、イワン二号の側面に設置された放水ノズルから、聖水が勢いよく噴射された。神父イヴァンが祝福した数千リットルの水。それは冬の空気の中で一瞬で白く凍り、無数の氷の粒となって幽霊列車の車体に降り注いだ。氷の粒が虹のように輝き、霧の中で光を乱反射させる。その光景は、まるで雪の結晶一つ一つが、それぞれの祈りを宿しているかのようだった。
聖水が幽霊列車の装甲に触れた瞬間。
ジジジジジジ——!
熱した鉄に水をかけたような激しい音とともに、幽霊列車の車体が「固定」されていく。これまで半透明に揺らめいていた輪郭が、急速に不透明になり、重量感が増し、そして何よりも、その存在が、完全な物理的実体として確立された。
銃座の「影」たちが、一斉に苦しむような動きを見せた。彼らは聖水を避けようとしていた。しかし逃げ場はない。聖水は幽霊列車全体を包み込み、そのすべてを「この世のもの」として縛り付けている。
今だ。
「体当たりぃぃぃぃ——!」
オルロフ爺の絶叫が、伝声管を通して全車両に響き渡った。
イワン二号の側面が、幽霊列車「ゲシュペンストツーク」の正面に衝突した。
轟音。これまでにない規模の衝撃が、二つの列車を同時に襲った。金属と金属が噛み合い、装甲板が引き裂かれ、リベットが弾け飛び、窓枠が歪み、火花が滝のように流れ落ちる。衝突の瞬間、時間が一瞬だけ止まったように感じられた。そして次の瞬間、現実が、容赦なく動き出した。
幽霊列車の車輪が、レールから浮いた。
一輪。二輪。三輪。重い車体が傾き、遠心力に逆らえずに、ゆっくりと、線路の外側へと倒れていく。
黒い蒸気が、最後の咆哮のように大きく吹き出した。
機関士席の「影」が、ほんの一瞬、オルロフ爺の方を向いたように見えた。その顔には表情はなかった。影だからではない。死んでいるからでもない。ただ、何かを伝えようとしているかのようだった。
感謝か。呪いか。それとも、ようやく終われる安堵か。
誰にもわからなかった。
そして幽霊列車は、全体が霧のように分解されながら、雪原の中へと消えていった。車体は砕け、銃座は霧散し、機関車の煙突が最後に黒い煙を吐き出して。すべてが、白い静寂に溶けていった。
残骸は、何も残らなかった。
ただ、雪の上に黒い煤の跡だけが、幽霊列車が確かにそこにいた証として刻まれていた。
◇ ◇ ◇
列車内に、静寂が訪れた。
誰もが息を呑み、何が起きたのかを理解しようとしていた。衝撃で床に投げ出された者。壁にしがみついたまま動けない者。耳を劈く轟音の残響に、しばらく誰も言葉を発することができなかった。
最初に口を開いたのは、意外にも、コミッサロフだった。
「……報告書に、なんと書けばいいんだ、これは」
床に這いつくばったまま、彼は手帳を握りしめていた。眼鏡がずれ、額から血を流している。しかし彼の指は、まだペンを離していなかった。
「『幽霊列車に聖水を浴びせ、ドリフト体当たりで撃退』? 私のキャリアは終わりだ。間違いなく終わりだ。科学アカデミーと党委員会の両方から——」
「同志」
隣で倒れていた神父イヴァンが、静かに笑った。
「そんな報告書を書けるのは、あなただけです。誇りに思うべきです」
「誇り? 幽霊と戦ったことを? そんなものが誇りに——」
「いいえ。説明できないものに立ち向かったことを、です」
コミッサロフはイヴァンの顔をじっと見た。それから、手帳に何かを走り書きした。何を書いたかは、相変わらず誰にも見せなかった。しかし彼の手は、さっきまでよりずっと落ち着いていた。
「……今だけは、認める」
「何をです」
「あんたの聖水は、効いた。非科学的だが——効いた」
「今だけですか」
「今だけだ」
「それで十分です」
二人は倒れたまま、顔を見合わせて笑った。
◇ ◇ ◇
歩兵車両では、グロモフが壁にもたれて座り込んでいた。彼の軍服はさらに煤と血で汚れ、左肩には深い切り傷ができている。しかし彼は、それよりも先に部下の数を数えていた。
「……全員いるか」
「大尉、それより自分の傷を——」
キリレンコが這い寄ってきた。彼のサーベルは刃こぼれし、愛用のクバンカ帽はどこかへ飛んでいってしまったらしい。いつもの余裕は消えていたが、まだ笑っていた。
「俺の傷は後だ。部下は——」
「全員無事です。重軽傷者はいますが、死者は、いません」
「……そうか」
グロモフは深く息を吐いた。スモレンスクではドミトリーを失った。あの時、彼は自分を責めた。今回も、また誰か死ぬかもしれないと思っていた。しかし——
「大尉」
キリレンコが、真顔で言った。
「今、ジョークを言っていいですか」
「……なんだ」
「『幽霊に体当たりして勝つ』これ、あとで誰かに話しても、誰も信じないでしょうね」
グロモフはキリレンコの顔を見た。それから、声を出して笑った。
「……違うな」
「何がです」
「今のはジョークじゃない。ただの事実だ」
二人は揺れる車内で、肩を並べて笑った。部下たちも、負傷者も、武器を握ったままの者も。全員が笑った。笑えることが、何よりの勝利だった。
◇ ◇ ◇
客車の隅。ヴェーバーは壁にもたれて座り込み、ただ前方を見つめていた。彼の目の前の窓からは、幽霊列車が消えた雪原が見える。まだ霧の残滓が、地面を這うように漂っていた。
彼は手帳を取り出し、震える手で一行を書き込んだ。
「ゲシュペンストツーク、ミンスク手前にてソ連装甲列車との交戦の末、消失。閉じ込められていた魂が解放されたかどうかは——不明」
彼はペンを置き、窓の外を見続けた。かつての同僚の顔を思い出そうとしていた。アーネンエルベに潜入し、そして二度と戻らなかった工作員。彼の魂は、あの列車の中にあったのだろうか。もしそうなら、今、解放されたのだろうか。
「……わからないことだらけだ」
彼は呟いた。そして、自分が今、敵国の列車の中で、敵国の兵士たちと共に戦い、そして無事であることに、奇妙な感慨を覚えていた。




